2024年02月27日(火)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ パン職人NO,1決定戦 Shapen your five senses

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ パン職人NO,1決定戦 Shapen your five senses  

 

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北風が吹いてリーベンアンドブロートの駐車場の落ち葉がクルクルと舞っている。

 

パンを買いに来たお客さん達はいつもならテラスでパンを食べるのだが最近は店内の暖かい喫茶コーナーが満員だ。

開店当初は不慣れだったスタッフも今では無駄の無い動きをしている。

パン粉(瀬戸川愛莉)はパンの品出しをしながら工房の江川と目が合うとお互いに手を振り合う。

それを見るたび大坂は俺も立花さんともう少し仲良くなりたいものだと羨ましい。大坂は何度か夜中華屋で食事を出来る様になったものの、仕事中目があってもそのまま目を逸らされる。まるでパン箱や製パンの機械でも見ている様に。  

さて

2階の事務所ではパソコンの前に座って事務員兼パン職人の塚田が修造に話しかけた。

 

 

「この調子で繰り上げ返済していくと1年以内に借入金が払い終わりますね」

「だな、でもそろそろ通常の返済に戻すよ」

「え?戻す?何故ですか?やはり借入金があった方がいいとか?」

「そんなんじゃないよ」修造はこの店の自分が動く期間が意外と短いもんだと思った。

2年はすぐやってきそうだ

約束だ

約束とは

律子と約束した2年

自分に課した2年

江川を一人前にする2年

その前に江川にはやって貰う事がある。  

「江川」

「はいなんですか」

「これからお前にはちょっとした試練を乗り越えて貰う事になる」

「えっ?!な、何ですか試練って」 江川は突然修造が試練と言ったのが怖くなり身を竦めながら聞いた「どうなるんですか僕」

「今はまだ言えない」

「ちょっとぐらい教えて下さいよう」

「何があっても俺を信じろ!そして自分を信じるんだ」

「えー」

「俺とお前の、男と男の約束だ」

「男と男の?」なんだか不思議な言葉を聞いた様な江川の表情を見て、場違いな事を言ったと気が付いた修造はバツが悪そうにした「ごめん」  

その日の夕方

江川とパン粉は家でおでんをする為に買い物をして江川の住んでる笹目マンションに帰って来た。

 

 

2人で仲良くおでんを作って煮込みながら江川はパン粉に質問した「ねえ愛莉ちゃん、男と男の約束ってどういう意味なんだろう。女と女の約束も女と男の約束もあるでしょう?」

勿論この言葉の持つ昭和のニュアンスはわかってはいるが実感はない。

「死語じゃない?未だに使ってる人とかいるのね。でもなんか女と女の約束ってよっぽどな時じゃないと使ったらいけない気がするな」

「修造さんがね、僕に試練を乗り越えて貰う事になるって言ったんだ」

「試練?」

「何だろう、なんか怖いな」

パン粉にも男と男の約束事はピンとこなかった様だ。

「でも修造さんを信じろというのは正解だ」  

次の日

事務所にいた修造の元にNNテレビの四角志蔵がやって来た。

「どうも」

「シェフ、何かいい企画があるそうで」

修造は四角を呼び出して2人何時間か話をした。

「成程ね、シェフ、これ企画会議に早速提案してみますが対戦相手はどうやって見つけますか?」

「それは考えてなかったな。パン選手権の時はどうやって見つけたんですか」?

「ある人物に頼んだんですよ、シェフ」

「ある人物」誰だろう、上層部の人物とかか?

その時四角は何か言いかけてやめた。

「おっと時間だ、決まり次第ご連絡します」

修造の考えた企画は取り上げられ何だか大袈裟な程大きく扱われる事になった。

大型の会場に仕切りが設けられてセットが作られた。そしてモニターがあちこちに付けられた。  

収録当日

スタッフルームに修造、那須田、佐々木、大木、鳥井が集まった。

「うわ、おれ選手の方じゃなくて良かった」台本を見ながら那須田と佐々木が言った。

『ある人物』とやらが集めた20人の選手には先日招待状が送られていた。

それを受け取った者達は当日控室でスタッフから受け取ったコックコートに着替えて、荷物は全部ロッカーに仕舞う様に言われる。

その中に江川の姿があった。

江川も招待状を受け取り、修造に行くように言われていた。コックコートの左胸の所には『18』と書いてある。

総勢20人がきょろきょろしながら言われるがままに移動し、ひしめき合って暗い部屋に入った。

「なにここ」

「怖い」

「暗い」

「これから何があるんだよ」

と皆口々に言った後

全員が「あっ」と反対側の扉の上を見ながら言った。

 

 

暗い中電光掲示板が光る。  

『混捏(こんねつ)しろ 250gのバゲット10本分』  

皆が読み終わってざわつき出したタイミングで扉が開いた。

全員その向こうの部屋に移動する。

「あっ」

20台の作業台とミキサーの横に材料が置いてある。

江川は18番のテーブルの前に行った。

準強力小麦粉、今測られたかの温度の水、塩、インスタントドライイースト、モルトシロップが置いてある。

そして全員が「あっ」と驚いた。

「秤がない」  

 

 

「秤無しでやるのかよ」20人全員が口々に言いながらそれぞれ材料を目分量で計り、ミキサーで生地を捏ね出した。

皆自分の作業に取り掛かっている。

江川は普段の自分の作業を思い出した。たまに良い感じにメモリぴったりに量れる時があるじゃないか。その時の感じを脳内に甦らせる。 全てが手探りのままミキサーに材料を入れる。 後は感覚で水を足しながら固さを調節した

その後生地をケースに入れてフロアタイムを取ろうとした「タイマーも無いのか」目分量も不安だし、分割までの時間も自分で計らないといけない。

待ってる間隣の者と話したり、自分一人で考える者もいた。

「よう」ポンと江川の肩を叩いた方を振り向いて驚く「あっ鷲羽君。フランスから帰ってたの?」

「休暇で帰ってたんだよ」

「僕パン学校の話聞きたいな」

「後でな江川」今はそれどころでは無い。

皆体内時計をフル活動させている最中だ。半透明のケースに入ってる生地の発酵具合で分割のタイミングを見ている。

その内江川はある事に気が付いた

「あ」

生地と書いてあるから生地を仕上げる所まででいいんだろうか

「でもホイロもオーブンも無いし」

江川は迷ったが、生地にパンチを入れてまたフロアタイムを取った。

かなり時間が経過していて不安だったが、生地の発酵具合を見て決めるしか無い。

焦って早めに分割をしだすものが出てきた。

「まだだ多分」江川は他に聞こえないように口に出した。

「もう少し緩んで来るのを待とう」

ケースの中で生地はゆっくりと発酵し始めどんどん膨らんで大きさが変わっていく。

辛抱辛抱

修造はカメラに映ったその様子を別室で見ながら

以前に送り主のわからないバゲットの本に挟んであったメモに

必ず一番良いポイントがやってくる その時をじっと待つ事だ

そう書いてあった

その事を思い出していた。

「まさにこれだな」

 

 

分割を済ませた者は出口から出て行った。

皆ざわざわして分割を始める者が出てきた。

そんな中、じっと生地が3倍の大きさになるのを待っていた。

「よし」やっと分割だ。

もはや半数が部屋から出ていた。

江川はケースから生地を出しフラットにした、そしてなるべく一発分割を心がける

その時250gで10本分と頭の中で復唱するが

「それは違うんだ」と思う

この分割した生地をこのまま置いて行っていいのかどうかもわからないけどでも250gって書いてあるけど250gじゃないんだ。

「修造さんを信じて」出口から出た。

「また真っ暗だ」早くに出た者はみんなこの暗い所で立って待っていたのか、そう思いながら狭い所で立っていると残りの者が1人2人と出て来て、20人揃ったところで後ろのドアが閉まった。

最後に入って来た男の声で「もう審査が始まってるよ、何人かの審査員が一人分ずつ計量していってる」と言っている。そうだ!やはり重さが重要なんだ、そう思った矢先に新たな電光掲示板が光った。

「番号だ」

「合格者の番号だ」

「俺何番だったっけ」など口々に聞こえる。

「18番だ」江川は自分の番号があったのでピリッと緊張した。

電光掲示板の下のドアが開いた。ここは合格者だけが入る感じなのか。

さっきと同じぐらいの大きさの部屋には台が10台並べられている。

「あっ」台の上にはもう出来上がった生地が並べられている。

「これは?」またしても部屋の奥にある電光掲示板を一斉に見た。  

『生地を同じ重さで100gに分割、できた者から出る』  

「生地を100gに?」きょろきょろした「また秤が無い!」

台の上には生地と手ごなとスケッパー、そして丸めた生地を入れるパン箱。

江川は分割しながら100gを手で計った。

できた者から先にと言う事は、他の者が分割し終えるより先にここから出なくちゃ

毎日やっていても中々出来るもんじゃ無い

それにこれって100gに分割して大きかったり小さかったりしたら最後には他の人と数が合わなくなるんじゃないかしら

製パンアンドロイドなら見ただけで全体の大きさ、持っただけで重さが分かるのに。

でたらめやって早く出ても意味がない

とにかく100gの目安を自分で決めてその通りにしなくちゃ

江川は生地を同じ大きさに横にカットしてそれを等分に分けた

隣の台にいる鷲羽は凄い速さで分割している

だが他の選手を気にしている余裕はない「慎重に速く」と自分に言い聞かせる。

最後の列の分割中  

 

 

あ、これ全部で100個になるのかな、目算では98個だ、2つ足らないや

でも100個って引っかけかも知れない。

江川は迷った。

でも自分で100gと決めて分割した結果98個だったんだからこれでいいのかも

そう思って江川は記事を丸めて箱に入れ、蓋をして急いで出た。

「また真っ暗だ」その声を聞いて鷲羽が声をかけて来た。

「江川お前何個?」

「98だったんだ、100こだったのかも」

「そうか、迷うな」

ってことは鷲羽君も98だったのかな

だとしたらホッとするな

後ろからぞろぞろと残りの者が出てきた

「俺は100個」

「俺は110個」などとバラバラの数を皆口々に言っている。

さっきと同じぐらい待った。

きっと今頃集計してるんだろうな

僕どうなるのかな、修造さんは今何してるんだろう

その時「あっ」また5つ番号がでた

「18がある!」そして次の扉が開く

江川は急いで次の場所に行った、鷲羽が走って行ったからだ。

早く行って次のお題を確認したい。  

 

 

5人が次の場所にたどり着いた、そこに置かれていた物は。

「あっ」

台が5つある、その横には各々大きなミキサーボールに生地が大量に入っているものが置かれている。

電光掲示板が光った  

『体力を使って3分以内にここを出よ』  

えっ僕こんなの3分以内に持てないよ

その瞬間江川の脳裏に※3分間のダンボール面接の事が浮かんだ

あの時も3分だったんだ、あの時修造さんは僕の事を現場処理能力のある優秀な奴って言ってくれたんだ。

江川は生地に食らいついた、だが重くて1回では無理だ。

少しづつカットして移していけばいけるがそれだと時間がかかる.

そうだ

江川は生地の下に手を入れてグッと持ち上げた

そうすると生地がパッとミキサーボールから離れて持ち上がる

ブザーが鳴りだした

それを生地が下がる前に勢いよくドオンと入れた。  

 

 

「これをあと4回!」

あと1分!

江川は最後の生地を勢いよく入れてその時足首を捻ったがそのままの勢いで部屋からまろび出た。

「いたたた」江川の声を聞いて早くにそこに立っていた鷲羽が「転んだのか」と聞いてきた。

鷲羽は絶対に修造の出題に食らいついてくる江川に「お前は相変わらずだな」と言ってきたが以前の様に悪意はない、つい言ってしまうのだ、そしてまた負ける気がするがその気持ちを払拭する。鷲羽は背筋を伸ばして深呼吸をした。

「勝つのは俺だ」しかしよく持ち上げられたな、基礎体力と体幹が大事なんだ、細い奴でも体幹が強ければ持ち上げられる。そういえば北国で育ったって言ってたな「やっぱ北国の人って足腰が強いのか」

ところで残ったのは5人の中の誰なのか?それは5人共が思ってる事だ。

はあはあ言って横に立っている人物なのか?相当急いだのか息切れがひどい「重かった」と汗を拭きながら言っている感じがする。

「あっ」電光掲示板が光った「18番だ」信じられない。「俺の方が早かったのに」と声がしたがさっきみたいに急いで現状を把握する為に次に行きたい「ごめんね」と振り向いて行った後、江川は痛む足を庇い片足飛びで飛んで行った。

「いたたた」足がズキズキする「捻挫かな」

次の現場には3人が選ばれた、鷲羽と江川、そしてもう一人は多分息を切らしてた男だ、日に焼けた肌に黒髪の青年だった。スラリと足が長くて歯が白い。

青年は江川に知り合いに挨拶する様にニコッと笑った。「あっ」見たことある。

この人、パンロンドのお客さんだ。

しかしそんな事を考えている暇は無い、次に江川が驚いたのは大阪が立っていた事だ。

「江川さん」

「大阪君どうして」

「訳は後ですよ江川さん」

見ると鷲羽には園部が、もう一人の青年には同じ年ぐらいの女の子が組んでいた。

電光掲示板が光った  

『2人で50人分のタルテイーヌを仕上げて次へ』  

見ると台の上にあらゆる食材が並べられている『2人で』と書いてあるので一緒に作ると言う意味だ。

見るとさっきより少し広い室内の奥には食材を置くスペースをとってあり、2台の冷蔵ストッカーに肉やハム、魚介類と4台のテーブルの上に野菜、各調味料、洋酒などあらゆる食材が並べられている『2人で』と書いてあるので一緒に作ると言う意味だ。

「お題には2人でって書いてあるから自分で勝手にやるなって事かな」しかし話し合っていると時間が足りなくなってくる。できた者から出口に行かなければならない。2人はとりあえず食材の前に立つ。

「いたた」

「足をくじいたんですか」

「うんそうなんだ」

「そこから指示して下さい」

「うん、大阪君あれとこれと、、」

江川が食材の調達を頼んでる間、鷲羽と園部は息がピッタリで話もせずアイコンタクトだけで食材を決めて運び終わっていた。もう一組は寄り添って食材を選んで運び出した。

 

 

  江川と大坂は時間の無い中細か具何をどう使うかを話し合い、ソースに関しては材料を運びながら大阪が提案したものを採用してする事にする。

食材を大慌てで集めた後、必死になってソースの量を計算した。

慣れて無い場所でのソースを50人分作って最後足りなくなるのは本当に困る、おまけに勝てる物を作らなければいけない。

ソースの次は具材の切り出しを2人で始める。

「大坂君ソースを塗って、僕がトッピングするからどんどん手前と入れ替えて」

「はい」江川は大急ぎで食材を切りながらどんどん大坂とトッピングしていった。

「早く綺麗に!」

後の2組が終盤に差し掛かった時女の子が指を怪我した「いたーい」「咲希大丈夫?はよ手当せな」そう言うと青年はタオルを指に巻いた。そして咲希を端に避けて驚く速さで盛り付け出した。

江川は手を動かしながら青年の会話を聞いて思い出した事があった「咲希ちゃん?そうだ、あの子高校生の時パンロンドでバイトしていたんだ、あの男の子はその時お客さんとして通っていたんだった」

鷲羽たちが終盤に差し掛かって来た時、大坂も作業に慣れてきて2人してどんどん追い上げていった。「できた!」急いで片付けて大坂の背中に飛び乗った「走ってー!」と出口を指さしたのと同時に大坂が「うおーーーっ」と走り出した。  

 

  その時俊敏そうなあの青年が咲希を抱えて先に滑り込んだ。

「あっ」

大坂は江川を背負ったまま滑り込んだが間一髪間に合わなかった。

「3位になっちゃいましたね、江川さん」

「うん、頑張ってくれてありがとうね大坂君」

6人はその場でしばらく待たされた。

「咲希ちゃん久しぶり。元気だった?」

「あ!江川さんだあ。早太郎、パンロンドの江川さんだよ」

「佐久間早太郎です、お久しぶりです」

挨拶しあう4人を見て鷲羽が「江川、この人佐久間シェフの息子さんだよ」と言った。

「えっそうだったの」佐久間シェフと言えばパン王者選手権の時に修造が戦った超有名ブーランジェリーサクマのオーナーだ。

「なあ咲希ちゃんさっきの怪我大丈夫やった?」

「うん早太郎の心配症さん、ちょっと指の先を切っただけだから大丈夫」

「だって咲希に何かあったら俺どうしたらいいねん」

「何言ってるのうふふ」

急に2人の世界に入り込んだのをみて鷲羽が「何しに来たんだよ」と呆れた様に言った。

その時電光掲示板が光る  

『全員で移動』  

突然扉が開いた「今度はなんだ」鷲羽と園部は確認しようといち早く扉の向こうに行った。「行こう咲希ちゃん」と早太郎達も続く。

「俺達もこのドアから出ていいんですかね?」大坂は江川をおんぶしたまま「ひえ~」と怖がっていた。 「何がおこるの?」江川もキョロキョロした。

広いスタジオに観客席があり、そこに50人程の老若男女が座って拍手して6人を出迎えた。その前には審査委員席があり、知り合いのシェフ達が座っていた。

そのまた前には広いスペースがあり、テーブルが置かれている。

その反対側に修造が立っていて6人に手招きした。

6人は緊張の面持ちで横一列に並んで立った。

江川は痛い方の足を少しあげたまま大坂の腕に掴まり立っていた。

突然四方に設けられた大きなモニターに文字が現れた。

「五感を研ぎ澄ませ!パン職人頂上決定戦!」それを見ながら売れっ子司会の安藤良昌が大きな声を張り上げた。

 

 

「観客の皆さん、テレビをご覧の皆さんこんばんはNNテレビが総力を挙げてお送りするパン職人頂上決定戦のお時間が始まりました!パン職人の皆さんには何時間も前から戦いを繰り広げて頂いておりましたが、その中から選ばれた3人のシェフと助手の3人に並んで頂いています」

画面にはそれぞれの経歴と名前が流れた。  

 

 

江川はそれを見ながら「これって誰が勝ち上がってくるかわからないのに20人と助手の20人分が用意されていたの?」と口をポカンと開けたまま見ていたが自分の顔が映し出されて慌てて口を閉じた。

「それではこれまでの試合の様子を順にご覧頂きましょう」

まず1番目の試合では、各選手が生地を作って分割している所が映し出された、その後江川達が出て行ったその後、那須田と佐々木が生地を計量している所が映し出された。

画面にその時の3人の点数が出た。

鷲羽が10点、江川が10点、佐久間が9点

あ、これってまだ勝敗が決まった訳じゃないんだ、これから点数が出るんだ。

もう負けたと思っていた江川はほっとした。

安藤が内訳を説明した「この時の10人の合格者は全員※焼減率を計算していました、私もよくわかっておりませんが、バゲットの焼減率が約22%として計算して焼き上がりが250gになるように計算した者だけが合格だそうです。皆さんの作ったパンは北麦パンの佐々木シェフが成形、焼成してくれましたーっ!」そういって手で指した方から佐々木が200本程のバゲットを台に乗せて運んできた。

今佐々木が運んで来たそれが目の前にある、焼き立てのバゲットだ。  

 

 

江川は自分の読みが合っていてまたほっとした。

自分の読みが合っていてまたほっとした。

「次に2番目の試合の説明を行いまーす。秤無しで100g分割は五感を研ぎ澄まして手を動かす、正確さとスピードを競い合うのです!正解は98個!中には100個ちょうどじゃないかと100個にするために分割したものから少しずつ足した選手もいましたが、あー残念!惜しかったですねえ」

点数がでた。

鷲羽10点、江川10点、佐久間10点

「こちら文句無く勝ち上がってきた皆さんという事で満点です!流石です」

その時の生地は那須田が成形して凄い量の焼き立てを運んで来た。

圧巻のバゲットとブールを見てワーッと満場の拍手が沸き起こった。

「こちら皆さんへのお土産になっておりますのでお帰りには忘れずにお持ち下さい!」と、安藤がパンを指してから説明を続けた「さて、1回目は経験値、2回目は正確さとすると3回目は体力勝負です」

モニターに各選手が生地をケースに移している所が次々に映されていく。

「いやいや凄い迫力ですね、こちらの判定は時間内での生地の移し方もそうですが、ボールに生地が残っていなかった方が合格だったそうです。

江川はそれを聞いて「そうか、普段はナイフでカットしながら生地を移すけど今回は時間がないから手に巻きつけるように全体を持ち上げたんだ、その後カードでひと回し生地を取って行ったのが良かったんだ」そう思っていると、点数が出た。

鷲羽10点、江川6点、佐久間8点

今度はベッカライボーゲルネストの鳥井が食パンを焼きあげて来た。

会場にそれぞれのパンのいい香りがする。自分たちが持って帰るので拍手にも熱が篭る。

スタッフが手分けしてお土産のパンを袋に入れだした。  

 

 

  ーーーー  

ところで

大坂は何日か前に修造から試合会場で江川の手助けをする様に言われていて、なんだか凄く気持ちが高揚していた。

一大事だ

人生の大勝負だ

実際自分が失敗して江川の足を引っ張るわけにはいかない。

そこで江川に黙って色々と練習を重ねていたが中々上手くいかない。

その日立花は仕事終わりにいつもの町中華屋に来ていた。

食べ終えた頃、大坂が入って来た。「大坂君」「あ、立花さん」

「どうしたの?なんだか疲れてない?」

「それが、、内緒だけど修造さんから『パン職人NO.1決定戦』って番組で江川さんが勝ち進んだら俺が助手をする事になって」

「何の助手をするの?」

「タルテイーヌらしいんです。だから俺野菜の切り出しとか練習してるんですが、一体どんな物を作るのか検討もつかなくて」

「まだ何を作るのかは分からないのね」

「はい、現場で作ると思います。江川さんも何も知らされないで出場するんです」

「じゃあタルテイーヌの作業を一から練習しましょうよ。まずは切り出しやソース作りからね」  

 

 

「えっ?しましょうよって事は立花さんが一緒にって事?」

「良いわよ、以前レストランで働いてたから江川さんの役に立てるかも」

江川さん?と思ったが喜んで手伝ってもらう事に。

急に食欲が湧いてきて運ばれてきたチャーハンをモリモリ食べている大坂を立花は微笑ましい目で見ていた。

次の日から就業後に2人でいろんな調理の練習を開始する。

「ソースってどんなのがありますかね」とパプリカを同じ太さにカットする練習をしながら聞いた。

「クリームチーズにナッツを使ったソースとか、アボガドやリコッタチーズベースの物はどうかしら。フルーツベースもいいわね」と何種類かのソースを2人で練習する。

「タルテイーヌってね塗ったものって言う意味があってね、そもそもこれに使うのは粘性っていうか塗りやすい物を使うの。だからソースもパンに水分が染み込みすぎたり乗りにくかったりしない物を選ぶのよ」

「はい」

「今日は煮詰める練習をしましょう。水分を飛ばして濃厚な風味を出すの」

そう言いながら立花の脳裏にかって同じ職場で藤岡に同じように仕事を教えていた時の事が蘇り、慌てて蓋をする。一瞬目を瞑った後、手鍋を木杓子でかき混ぜる手を早めた。

次の日も切り出しやソース作りの練習する。

「今日はフルーツソースを練習してみましょう」

「甘いんですか」

「香りが良くて肉料理にも合うのよ。オレンジやキウイ、りんご、レモンとかの色んなものがあるわ」

「江川さんはどんなものを作るんですかね。勝ち進んだらの話ですけど」

「先にパターンを考えておくのも良いわね、食材に合わせてソースを提案したら良いかも」

「それは良いですね、俺パターンを考えてみます」  

ーーーー  

そして試合当日

大坂はタルテイーヌの食材を前にして園部、大坂、森岡や他の助手は自分のペアを組む選手が来るまで20人で待っていたがどんどん脱落した選手の助手達ががっかりして帰っていく中心細かった。

園部はじっと黙ったままだったが食材の方をじっと見ているので「あ、何処に何があるのか覚えてるのかな?」と思い自分も順番に食材を見ていった。

とうとう選手の鷲羽と佐久間が入ってきた!そして3番目に足を引きずって入って来た江川を見て心強かった「江川さん」「大坂君どうして」

とにかく選手が来たら早くタルテイーヌを仕上げる様にと修造に言われていたので「話は後ですよ江川さん」と江川を促した。

具材を選んでソースを作って捻挫した足を痛がる江川と作ったものがこれだ

江川らしい華やかな色合いのタルテイーヌだ。

 

 

  材料選びの時に江川がローストポークを選んだので、大坂はここぞとばかりにフルーツソースを推した。

江川がポークとソースの組み合わせを元にトッピングを考えたので急いで掻き集めて準備を始めた。

まずソースはフォンドボーにオレンジの果汁を入れて少し焦がす。ハチミツとと洋酒を入れて煮詰めた後バターを最後に入れる。

カンパーニュに薄くクリームチーズを薄く塗りローストポークの薄切りと、後はカラフルさを出す為に四角くカットした紫キャベツ、黄色いミニトマト、赤いビーツ、を配しソースを振る。トッピングにデイルとカットしたオレンジで華やかさを添える。

そして鷲羽は

濃厚なオランデーズソース(卵・バター・レモン汁)に海老のポシェ(ボイル)を使ったもので、カンパーニュに海老を並べ、両側にバターで炒めたエシャロット、茹でたうずらの輪切り、栗のみじん切り、そしてその上にハーブとカッテージチーズを散らした。フランスのカフェで食べたものを組み合わせた。

 

 

最後に佐久間は薄切りのラムショートロインハムを使った

ソースはハリッサソース

チュニジア発祥のソースでトマト、香味野菜、オリーブオイル、塩、スパイス。それにマヨネーズを少し加えてまろやかにしてレモン果汁を少し加えてパンに塗った後、ラムショートロインハム、紫玉ねぎ、ズッキーニ、パプリカ、キャロットラペの上にヨーグルトソースを振りかけてパクチーを乗せた。個性を出したものになった。  

 

 

  作ったパンは素早く選手別に並べられて50人の観客の審査が始まった。タルテイーヌを3個とも味見して3、2、1と点数をつけていく。

勿論美味しかった物が3だ。

審査の間3組は立ってその様子をじっと見ていた。

自分達の勝負がかかっている。

人々が自分の考えて作ったパンをどんな顔をして食べてるのかを。

「どの人も美味しそうな顔してるな」

「俺のが1番美味しいって」

「私達が作ったものよね、早太郎」

江川は不安だったが司会の横にいる修造を見ていた。

修造さんが俺を信じろって言ったんだ。

僕今日は修造さんが教えてくれた事を思い出しながらここまで進んできたんだからこれでいいよね。

審査員達に紛れて御馴染み大木と鳥井も試食をしていたがそこに佐々木、那須田も集まって来た、そしてその後ろにいた背の高い男に皆話しかけていた。那須田と佐々木はその男を「先生」と呼んでいた。前回の「パン王者選手権」同様デイレクターの四角に頼まれてこの男が全選手をアテンドしていたのだ。大木は後に立っていたその男の方を向いて「隠れてんじゃねえよ」と言っていた。  

 

 

「ふふふ良いじゃない、ライトのおかげでこっちからはよく見えるんだから」そう言ってニヤリと笑った。

そう、ライトに照らされて6人はとうとう結果発表を見る。

今までの合計は

鷲羽 30点

江川 26点

佐久間 27点

そこに投票者の点数が1人1点で加算される。

突然大きな音楽が鳴って安藤が雄叫びをあげた

「さあーっいよいよ集計結果が出ましたーーっ!結果発表ーーっ」

デレデレデレデレデレドーーーン!!!

鷲羽 46点

江川 45点

佐久間 42点  

 

 

  「やった!俺の!俺様の勝ちだ!初めてお前にかったぞ江川!これが俺の実力だ!凄いな俺!やっぱフランスで修行して来たおかげだな。この調子で約束通り大木シェフの所に帰って園部と世界大会を目指すぞ」

ハハハハと笑う鷲羽の声を聞いて大坂が「よくしゃべりますね」と江川に囁いた。

江川は苦笑いしたが鷲羽と園部に向かって言った「2人とも頑張ってね、ねえフランスの学校はどうだったの」

「それは」と言いかけて鷲羽は急に言うのを止めた「いずれまたお前と戦うんだ、お前には教えてやらん!」と首に手を当ててから大きなジェスチャーでシッシッと追い払う仕草をしてきた。

「なんだよぅ鷲羽君のケチ」悔しそうな江川に「フン!またな、江川」そう言って鷲羽は園部と2人で去って行った。

 

 

収録も終わり、パンのお土産がいっぱい入ったバッグをぶら下げて帰る観客の真ん中を歩きながら「鷲羽はきっと世界を目指せるな」と言いながら大木は背の高い男に聞いた「おいお前は誰に投票した?」

 

「うん、ハチミツと洋酒の量が正解だったよね」

 

ーーーー

 

江川は修造に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

首を項垂れて次の日出社した。

「江川さんテレビ見ましたよ、あれ作って下さいよ」

「美味しそうだった」

「お疲れ様でした」など工房のみんなが囲んで声を掛けてくれたが心は晴れない。

大坂だけが立花に「フルーツソースが上手くいって良かったわね」と言われて有頂天になった。

 

 

江川は修造に会うために事務所のある2階への階段を足取り重く登った。

「修造さん」

「江川、昨日はお疲れさん」

「僕負けちゃいました」

「江川、秤なしでちゃんと生地ができた。ちゃんと98分割にできた。生地を取り出せた。美味いタルテイーヌが作れた。お前のタルテイーヌが1位だった。なんか文句あるか」

 

 

それを聞いて江川のモヤモヤは吹き飛んだ。

「1位は鷲羽にプレゼントしてやれ」

 

 

おわり

 

 

タルテイーヌはフランス式オープンサンドイッチ、焼き込みやスモーブロー風など様々なトッピングやパンを楽しめます。今回は3組の個性に合わせてトッピングを考えてみました。イラストは高さを陰影で出すのに乗算とハイライトを使いました。

パン屋さんはパンを作る時に沢山の事を考えています、水の量、温度、湿度、発酵具合、他の生地との時間の兼ね合い、人の配置、休憩時間の采配、お客さんの出入りとパンの製造量の増減、仕入れと消耗品の管理、支払い、シフトの事、事務の事、店のSNS、そして常に人間関係が付きまといます。毎日取り組んでいくうちに徐々に慣れてきて出来る事が分かってきたり他の人にやって貰ったりして日々を乗り切っていくのです。修造は江川という唯一無二の存在に助けられていくうちにある決心をします。そのお話はもう少し後になります。

焼減率とは(分割重量ー焼いた後のパンの重さ)÷分割重量×100

※焼減率=焼成時に(パンを焼くと時に)水分が蒸発するなどしてパンの重量が減る率の事。バゲットの焼減率は22%、計算の方法は(焼く前の生地の重さ−焼いた後のパンの重量)÷焼く前の生地の重さ×100

このお話では焼き上がった時が250gでというお題だったので、焼減率を計算した者の中からより正確だった者が勝ちだった。

250×1.22=305

一般にバゲットの重さは300〜400g フランスでは350gと決まっている。 計算上は287gに焼き上がるのが理想。 ここでは分かりやすいように250gに。

※北海道の北麦パンの佐々木は修造がパン職人の選考会で戦った相手 新潟のフーランジェリータカユキの那須田は修造の憧れのシェフだ 修造は知らなかったがある人物によって皆裏で繋がっている。

 


2023年11月14日(火)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 製パンアンドロイドと修造

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 製パンアンドロイドと修造

 

 

 

リーベンアンドブロートが創業して半年が過ぎた。

修造と江川は2人で生地を成形してバヌトンという発酵の為のカゴに入れていく作業をしている。

そしていつも気の利くカフェ部門の岡田はテキパキと店の清掃を済ませ、窓ガラスの汚れがないかチェックしていた。

そのガラスの向こう、駐車場兼入口の方から『基嶋機械』の営業マン後藤とその他三人の男が歩いてくる。

岡田は店の前に移動して、出迎える為に立って待っていた。

「こんにちは!修造シェフはいらっしゃいますか」後藤は日に焼けた顔から白い歯を見せ、大きくハキハキした口調で言った。

「はい、お待ち下さい」

と一礼して、岡田は早足で工房の修造に声をかけに行った。

修造が作業の続きを立花に頼み、店に行くと来客達はカフェのテーブルに着き、岡田はコーヒーを淹れていた。

後藤は立ち上がって修造の所に飛んでいった「シェフ、今日はお願いがあって来ました」

「お願い?」

修造は初見の客の方を見て頭を少し下げた。

「こちらはNN大学のロボット工学科のアンドロイドを研究している鷹見崇(たかみたかし)教授と助手の三輪みわ子さん、常磐城親(ときわしろちか)さんです」

「どうも」と言いながらロボットとかアンドロイドとか修造の生活とは関係のないこの人達はなんなんだろうと三人をジロジロ観察した。

「アンドロイド?」

「はい、今は色んな職業を手助けするアンドロイドが生まれてきています。人らしく衝撃にも強く。狭い工場でも大丈夫。それでパン職人って重労働だけどそういうのは無いなあと言うわけで今回パン職人の動きを徹底的にデータを取って実現化を目指そうと言う訳です」鷹見はサラサラと説明した。

「工場で働くパン用のロボットアームなんかは既にありますよね?

「そうですね、製パン工場にはあります。しかし町のパン屋さんにそれを置くというのは費用も掛かり場所も無い場合が多い。一般のパン屋では殆ど導入例がありません。高齢化で店じまいするのも体力に自信が無くなるからと言うのが理由の中の一つです。なのでそれを補って少しでも町のパン文化を残したいのです」

「で?」

「はい。是非修造シェフからのデータを頂きたいと思いまして」

そこに後藤が付け足した「製品ができたらパン屋に月額利用料でご使用頂きたいと思います。この企画は基嶋がNN大学に全面的に協力しております」

 

 

 

後藤と教授達の話を聞きながら修造は思った。

抵抗あるな、アンドロイドだって?

手作りの意味わかってんのかよ。

後藤は修造の表情を読み取り付け足した「シェフ、私も辛いんですよ。ご高齢でお店を閉められる時はお店の周りも寂しくなりますし、常連で高齢のお客様もお困りになってるのを見ています。この企画は色んな方の為に考えたものなんです」

成程、高齢化が原因で閉める店を少しでも減らしたり、無くなるその日を遅くしたりできるなら協力しても良い。

修造はそんなふうに思い直して質問した「データって具体的には?

「シェフの動きをモデルにします。詳細にデータをとって正確に再現するのです。この動きの時の力の入れ具合はどうか、手の回し方は?上げ下げの角度は?などの様々な動きを測定してデータを出すところから始めます」と助手の三輪が説明した。

「シェフの動きをアンドロイドに記憶させ、製パン職人として活躍する日も近いでしょう。私は楽しみでなりません」後藤が小躍りしそうな大袈裟な動きで言った。

「一緒に製パンアンドロイドを作り、世の中の役に立ちましょう、シェフ」

「はあ、まあ」

 

ーーーー

 

開発に協力することにした。

それは修造の全然わからない理工学部の世界で、ロボットの設計・開発などのややこしい計算や機械がついて回った。

関節の全てにゴムの様なシールを付けた、手などは特にシールを沢山付けてその上から手袋をする。三輪と常盤が離れた場所でデータを取っている。

「有線じゃないから動きやすいな」

修造が動くとパソコンの立体3Dも同じ様に動く。シールの付いてる所は黄色で表され、関節の動きがデータとして残るわけだ。

何日も何時間も費やした。

そのうち後藤の紹介で、ミーテンリースという会社の川口社長と平方という営業マンがやってきた。

 

 

「開発できた暁には我々が色んなパン屋を回ったり資料を送って製パンアンドロイドを広めたいと思います」といってパンフレットを渡してきた。

アンドロイドのボディの写真の横には修造監修と書いてある。

「修造監修って、別に俺があれこれ言った訳じゃ無いのにな」

「こんな風になるんだ」一部始終を観察していた江川は「イケメンとか美人とかいたら楽しいのにな、色々選べる様にしてよね」と口を挟んできた。

「今はまだまだ開発段階なので考えてみます」と言って関係者達は帰って行った。

 

「ねぇ修造さん、ああいう機械を工場に入れるのって粉とか被るとどうなるんでしょうね。僕たちならお風呂に入れば綺麗になるけど、アンドロイドって隙間とかありそうですよね」

「だな、江川。そう言うのを現場の声って言うんだよ。それ教授に言ってみてよ」

「わかりました」江川は他にも思いつく限りの事をあれこれ紙に書き、それを鷹見に電話して読み上げていた」

それで開発期間は伸びて若干の大きさを変えてみたり薄い膜でアンドロイドを覆って汚れや粉詰まりを防ぐ様に研究が重ねられた。

そして生まれたのが試作機アンコンベンチナルA1-1500

「ねえ、何ができるの?」江川は興味があるらしく常盤と三輪に色々質問していた「分割、丸め、成形、荷物運びとかできるんですよ」

「へぇ」

「試しに一緒に働かせてみて動きを見てみて下さい」

「これってパン屋さんには貸すの?いくらなの?」

「現段階では初期費用300万、月額35万ですかね」

「えっ?高くない?人1人ぐらいいくじゃない?」

後ろで聞いていたリース会社の平方はが説明をした「現段階では体数が少ないので高額ですが、汎用性が高まればおのずと価格も下がってくるものですよ」

 

 

「えーじゃあ平方さんが沢山営業に回らないとね」

「はい、頑張ります」平方がにっこり笑った。

 

ーーーー

 

リーベンアンドブロートでアンドロイドが働き始めた。

実際に現場で起こった出来事や職人の声をデータとして活用する為だ。

誰も使おうとしない。

「忙しくてそれどころしゃないよ」

「ちょっと怖いわ」

という声がある中

「まあまあ、丸めができるんだって、大きさとか分かるのかな?」

江川はアンコンベンチナルA1-1500に名前を付ける事にする

修造がモデルなのでちょっと顔が似ている。

「しゅうちゃんはどうですか?」

「あ、俺小さい頃そう呼ばれてたよ」

江川は親近感が湧く様に『しゅうちゃん』と名付けた。

「しゅうちゃん、これ丸めといて」と言ってアンドロイドのしゅうちゃんに生地を分割して渡した。

「はい、分かりました」江川と台を挟んで前に立ち、しゅうちゃんは生地を丸め始めた。

「えっ」修造ぐらい綺麗に丸めた!

みんな遠巻きだがじっと観察している。

 

 

「話もできるんだな」

「ホントね」などと言って驚いていた。

江川が違う大きさに生地を分割して渡すとまた綺麗に丸めた。

こうやって見てると動きが修造さんに似てますよね。2人いるみたい」

しゅうちゃんが丸めた生地を正確にバットに並べるのを見て皆が「おーっ!」と感嘆の声を上げた。

ミキサーに粉を入れたり生地の出来上がりを確かめたりってどうやってやるのかな?

「しゅうちゃん、これをミキサーに入れて」

「はい分かりました」

しゅうちゃんはこの工場内の機械の場所がインプットされていて、修造の動きで粉をミキサーに入れて、江川が用意したものを決められた順に入れて行った。

修造はそれを見ながら例えば水の温度は人間が見なくちゃならないとか人が使ったものを適当に置くと探せないとか気づいたことを書き込んでいった。

分割も丸目もできるとして、移動して次の別の作業をさせるのが困難みたいだな。ひとつ所において同じ動きをするんならロボットアームみたいなものになっちゃう。人型で色々動けるんだから俺達と同じ様に動けなきゃ意味ないよ。

しゅうちゃんに色々付き添ってやらせている江川を見てちょっと介護の人みたいだなと思った。

教授はまたやってきて、結構難しい『季節によって水の温度を変える作業』のデータを取った。

例えば冬はお湯で仕込む、夏は氷水で仕込む、季節の変わり目にガラリと気温が変わる時の対処など、気温が何度の時の水の温度はと言う店の過去のデータを打ち込んでいくのだ。

しゅうちゃんは一旦持ち帰りになりバージョンアップして帰ってきた。

少し進歩したものの、しゅうちゃはよく故障していた。

営業に来ていた後藤が「やっぱ粉が入るんですね。毎日綺麗にしてやらないと」と言って粉を拭き取っていた。

江川は結構口うるさいタイプなのか、教授が来るたびにしゅうちゃんの動きに注文をつけてもっと粉の入らない様にやり直せと言っている。

しかしそれは製品の質を向上させるんだから悪いことではない。

しゅうちゃんは何度も試作されて新しいのと取り替えられた。

江川の言った通り男性、女性の容姿や背丈も選べる。

鼻をもっと丸くて可愛く目もバッチリして、などと容姿もシリアス路線では無く親しみやすい可愛いものになっていった。

そしてついに江川の許可がおりた。

「江川お前凄いな」

影響力のある江川に修造は感嘆の声を上げた。

とうとう製パンアンドロイドアンコンベンチナルβ750の基礎が完成し、このリーベンアンドブロートから去る日が来た。

修造はアンコンベンチナルβ750に向かって言った。

 

 

「おい、俺たちはこれからもずっとパンを作り続ける、俺たちの手でだ。お前はこれから世に出て沢山のパン屋を助けるんだ。力のないお取り寄りや、ずっと仕事を続けるのが辛い人達のためにだ。頑張れよ」

それは自分の店のスタッフは勿論、しゅうちゃんを取り巻く人達にも言いたかった事だ。

「これで販売してまたバージョンをアップしていこうと思います」と鷹見が修造に挨拶した。

「中身は書き換えられるからあとはボディの動きが気になる。これから出会うパン屋さんの声に耳を傾けてよね」

しゅうちゃんを引き上げるときに江川が鷹見に言った。

一緒に来た平方が「こちらでは使われないですか?」と聞いて来たので修造は「まだ俺たちパン作れるからね」と言って断っていたが、江川はしゅうちゃんシリーズに情が移り寂しそうだった。

「しゅうちゃん、僕がひとりぼっちになったら一緒に仕事してよね」

こうして製パンアンドロイドはリーベンアンドブロートから居なくなった。

 

ーーーー

 

さて、製パンアンドロイドアンコンベンチナルβ750が世に出ることになった。

今までも製パン用のロボットはあったものの、とにかく故障が多くて困っていたがその原因の多くは粉の目詰まりによるものだ。その点β750は江川のしつこい要請により、ボディの周りを薄くて丈夫なシートでコーティングしてあるから目詰まりは防げる。

動きも滑らかになり、パン作りができるアンドロイドを平方は動画にとってあちこちに営業して回った。

昼前

修造は江川とプレッツェルをラヴゲン液に付ける作業中。

「とにかくチーズプレッツェルが人気がありますね」

「だな」

「修造さん、基嶋機械の後藤さんがお呼びです」

「わかった、今行くよ。登野さん、ここ代わってくれる?」修造は立花と作業中の登野にそう言って後藤と事務所に行く。

「修造シェフ、お世話になります」

「どうも、おかけ下さい」修造は向かい合わせでソファに座った。江川が通販で買ったピンクのソファで、色は派手だが座り心地が良い。

「アンドロイドの展示会をやる事になりまして、シェフにお知らせに来ました」

「それは良かった。誰か使ってくれそうですか?」

「そうですね、好感触なお問い合わせがありますよ。ところでシェフ、その時に製パンアンドロイドと一緒にデモンストレーションをやって頂きたいのですが」

「え!」

ステージでシェフと一緒にアンドロイドがパン作りをするんです」

「俺が?」

 

 

 

後藤は修造が断りそうなのを読んで立ち上がって言った。

「いやー基嶋もですね、世界大会の時は一丸となって修造シェフの応援をしたものですねぇ

「えっ!あ、はい」そう言われて修造はちゃんと座り直した。基嶋が世界大会でのスポンサーになっていて、大会が終わったら講習会をしてくれと言われていた事を思い出したのだ。

「普通の講習会より難しそうじゃないか」

 

実際

アンドロイドと一緒の講習会とは?

一般的な製パン講習会はテーマを決めてやるものだが、大概は開催する企業の宣伝がついて回るものだ。例えばバターの会社ならその会社の製品を使うレシピを作って、それを受講者に配ってこんな風に使うとこうなりますとか、販売はこんな風にしてとか説明する。

機械の会社ならオーブンの機能やらミキサーの機能やらが際立つ様な製品を作って見せる。

「うーん」

俺が自分の動きと同じアンドロイドを人に勧めるのか?そもそも自分の意思じゃなかったのに一体どうやって?

いや待てよ

江川だ!

江川みたいに一緒にやって機能を見せるんだ。

製パンの動作から次の動作への横移動、これが難しい。そして次の作業の為の準備、製造。

となると俺は補助だ。

自分の仕事をしながらアンドロイドにも作業をさせる。

「成程」

修造は後藤と綿密な打ち合わせをした。

三輪と常盤にも細かい入力をして貰った。

実際に製品を使うのはお客であるパン屋なんだから、その人達が使いやすい様にしないとな。

大抵のパン工場は狭いんだ。機械が所狭しと置いてあってちょっとした隙間にも物が置いてある

「普通に歩けるスペースは少ないんだよ」

「後藤さん」

「はいシェフ」後藤はいつもみたいに白い歯を見せて笑った。ほうれい線がクッキリと現れ目尻の皺が際立った。

中々後手に回りがちなこの業界に光を当てる様な事をよくやってくれましたね。開発費も半端ないと思います。この計画が軌道に乗ってくれると良い」

「修造シェフ!ありがとうございます。講習会成功させましょうね」

「やるならやるで色んな人に便利に使える様に思って欲しい。俺はそう思います」

さて

デモンストレーションは製パン製菓の大型の展示会でおこなわれる。3日間あり、同じ会場では例の世界大会への切符が手に入る選考会もある。過去に修造も江川と一緒にここに来て、江川は助手の選考会を、修造は世界大会に出場する為他の選手と争い、2人してフランスに行き世界大会に出たのだ。

「懐かしいな」今日はパンの大会でなく、アンドロイドの補助なので、なんだか不思議な気持ちで会場に入った。

 

修造がアンドロイドと講習会をするとあって、そのブースの前は人が取り囲んだ。修造とアンドロイドが並んで講習を行い江川が司会進行。スタッフに大坂と登野が来ていた。

「今日は3人ともよろしくな」

「俺めっちゃ緊張してきました」「私も」と大坂と登野は変な汗をかいていた。

「練習した通りやれば良いよ。江川は全然緊張してないみたいだけど」3人は江川を見た。もうマイクを持ってイキイキとスタンバイしている。

ブースの後ろや横には開発の関係者が並んでいる。

 

 

「皆さんようこそいらっしゃいました。本日はリーベンアンドブロートのシェフ田所修造さんと基嶋機械のアンドロイドのデモンストレーションを行います。こちらが我が社とNN大学理工学部が総力を挙げて開発した製パンアンドロイドアンコンベンチナルβ750です」と後藤の挨拶のあと、江川が「β750のニックネームはしゅうちゃんです。しゅうちゃーん」そう言って手を振るとしゅうちゃんも「江川さん」と手を振って返事した。

実演が始まった。

修造が台の上に生地を広げて「350gで分割して」と支持する。しゅうちゃんは「はい分かりました」と返事して秤を使わずスケッパーを手に持ち生地を同じ大きさに分割した。

「これを見て下さい」江川は分割した数個の生地を計って見た。

「同じグラムだ」

「そうなんです計りは要りません、見ただけで計測出来て、持っただけで重さがわかります。一般常識的な事や、労働するにあたっての立ち居振る舞いはデータが入っていますし、無限に学習していく事ができます。AI機能で記憶していきますので同じことを何度も教えなくていい。今はパンの基礎的な知識だけですが雇う人の個性あるパンを覚え忠実に再現できるようになります。つまり貴店だけの製パンアンドロイドができあがるのです」

修造とアンドロイドの動きを見ながら、江川の説明をアンドロイド賛成派も反対派も真剣な面持ちで聞いていた。

次に計った生地で「成形してバヌトンに入れて」としゅうちゃんに言うと端にあった丸めた生地から成形をしていく。ポンポン叩いてガスを抜いた生地を裏返して何度か端を中心に向かって折りたたんでいき、それをまた丸めてカゴに入れていく。

会場から「ほお~」という一般客や、パン職人達のため息が漏れた。

何種類かのパンの成形が無事終わり、大坂が焼けたパンをテーブルに並べていくと業界人やパン職人達は観察したり写真を撮ったりどこかに電話したりしていた。

会の最後に「何か質問のある方」という江川の言葉に大木が真っ先に手を挙げた「このアンドロイドが職人並みに仕事できるかは今の内容では分かり辛いけど実際導入の手順はどうするの」

その質問にマイクを向けていた江川が「では後藤さんに伝えて頂きます」と言ってマイクを渡した。

「ご質問ありがとうございます。まず当社の方で基本入力を済ませたあと、働き先の歴史とレシピや工房の見取り図、働いてる方の顔が認識出来る様にデータを詳細に打ち込み、ベリファイ(検査入力)を行ってからの納品になります。納品後は何度でもバージョンアップできますからその点は安心です。初めは見習いですのでできることは少ないですが先程江川さんが説明してくれた通り無限に学習していきます」

他の職人がすぐ手を挙げた「パン職人の就職率が下がるんじゃないかと心配する声があるけど?」

「そうですね、全てのパン屋で導入するならそんな事になるかも知れませんが、基本は人の少ない部所や人手のない職場での仕事上のパートナー、労働の担い手として生まれたものです、そうは言っても皆さんが導入して下さるなら弊社としては願ったり叶ったりです」と、後藤が勢いよく言った。

「田所シェフの所でも使うのかい?」という質問に修造が答えた「実演までして言うのは何ですが、俺の所ではまだまだ必要ありません。ですが人手がなくて日々を何とか乗り切っている店は少なく無い筈です。あと何年頑張れるか分からないと思いながら営業を続けるのは辛い延々と手伝ってくれる存在があるのは嬉しいが使いこなせなくては意味がない。なので導入後はミーテンリースの平方さんが手厚く面倒見てくれる様です」

 

皆一斉に平方の方を見たので平方は慌ててお辞儀をした「私にお任せ下さい」

「リース料の分も売り上げを上げないとな」と修造はしゅうちゃんに言うと、見物客からフフフと笑い声が上がった。

 

これを使うとこんな良い事があると理解して貰いたい、そう思って修造は続けた「パン屋のご主人を今の製パンアンドロイドが超える日が来るとは思いません。それは人間ならパン作り以外の心の深みや経験知識があるからです。お客さんの心がわかるから通じ合えるものがある。だけど永遠は無いんですから、例えば夫婦2人で経営していて突然ご主人が亡くなってしまったら残された者はどうなりますか?勿論一人でやっていけるならそれに越した事はない。でも雨の日もあれば照る日もある、挫けそうになった時、ご主人の代わりに手助けしてくれる存在が大事な時もある。いくらでも仕事ができて、力仕事をしてくれて、指示通り動いてくれて、もしそんなものがあったら夢の様でしょう。俺はそう思ってプロジェクトに協力しました。後藤さんの言う様に、もしかしたら高齢化のせいでどんどん無くなる店が増えるかもしれない。でもそれを少しでも遅らせる事ができたら良い」

アンドロイドのお披露目会の初日は無事終わった。

「いやー盛況でしたね。正直誰も来なかったらどうしようかと思っていました」

「ははは」修造も同じ心配をしていたのでホッとした笑いが込み上げた。

アンドロイドは会場の前に立ち、道行く人達が遠巻きに見たり話しかけたりするので後藤がすかさずパンフレットを渡しに行っていた。

そんな後藤を見て「あのバイタリティには感服するよ」と呟いた。

 

片付け終わって帰ろうとすると「修造さん、送っていきますよ」と平方が声をかけて来た。

「どうも」

「ああ!僕も行きますよぅ」江川も一緒に帰る事になった、大坂達に店の車を任せて3人は車に乗った。

「平方さん今後は営業で忙しくなるんじゃないですか?」

「講習会で撮った動画を配信したり一軒一軒まわって営業する予定です。今度は展示会を計画中です。あ、ちょっと待ってて頂けますか?1軒だけ感熱シールを納品させて下さい」

平方がパン屋の前で車を停めてダンボールを持って急いで入って行ったのを2人で見ていた「リットルパンですって、僕知らなかったな。中にはご主人とと奥さんが働いているんですね、あれ?」

 

 

江川は店の中で話している女性店員と平方の方をガン見した。「どうした江川」「僕の勘ではね、平方さんはあの奥さんに好意を持っていますよ」「なんでわかんの?そんな事。ほんとに奥さん?」修造も店の方を見た。青いエプロンをして、頭に赤いバンダナをしている店員と話している平方は確かに顔が赤い気がする。

「僕のお母さんぐらいの人ですよ」

「じゃあ平方さんと同じ年代じゃない?」

「ところでね修造さん、僕聞きたかった事があるんです」江川は平方を見ながら思い出した事を言った。

「和鍵さんてね、修造さんが好きだったんですよ、知りませんでしたか?」

「ええ?そんな事、でも和鍵さんの母親にもそんな事言われたなあ」

修造は遠い目をして言った。

「気がつかなかったしどうしようもない事だよ。勝手ばかりしてて申し訳なく思ってるのにそれでまだ他の女性に目移りなんてしたら俺はクズだ。律子に合わす顔がないし、それに律子って江川以上に凄く感が鋭いんだよ。ちょっとでも他の女性の事を考えてみろ」修造は背中がゾクっとしたのか身震いをした。

「それなら初めから何も気がつかない方がいいんだ」

「そういうものなんですかねぇ」

そこに平方が戻って来た「すみませんお待たせしました」

「平方さんって独身なんですか?」江川が聞いた。

「はい、もう50を過ぎましたがね。私はね、ずっと気になってる人がいて、とうとうこの年まで独り身のまま来てしまいました」

「え?それは相手の人は知ってるの?」

「いえいえ、それはとんでもない事です。ご存知ないですよ」

「もしこのまま気持ちを伝えないで終わっても良いんですか?それで平気なの?」

「言えませんよ絶対に」平方はアクセルを踏んで発進した。

江川は平方が気の毒で帰るまで車の中でずっとシュンとしていた。

 

ーーーー

 

リーベンアンドブロートの駐車場に北風が初めて吹いた日

修造達はシュトレンを、他の物は店の品を作っていた。

「すごい量ですねぇ、こんな時しゅうちゃんがいたらなあ」

「江川は愛着が沸いてたもんな」」

「だって単調な仕事でも何でも嫌がらずにやってくれそうでしょう」

「そうだ、それを今度鷹見教授に言ってあげよう」

その時建物の裏の倉庫から誰か入ってきて工房の扉をノックした。

立花が「興善フーズの納品じゃない?」と扉を開けて倉庫に納品に来た業者を出迎え数量をチェックしていると「ちょっと大坂くん」と呼んだ。

大坂はダッシュで倉庫に行ったが、その後なんだか立花に叱られている声がする。

「あの修造さん」

「どうした大坂」

「やってしまいました」と言って倉庫に大量に積まれたラズベリーを見せた。

先日アプリから注文した時に20と200を間違えて入力したらしい。

「あっ」修造はすぐ興善フーズに電話して詫びを入れて持って帰って貰った。

「何回もやったらお店の信用がなくなるんだから気をつけてね」と立花から注意されて小さくなっている大坂を見て「これがヒューマンエラーってもんだな」と笑って言った。

 

 

製パンアンドロイドと修造  おわり

 

 

読んで頂いてありがとうございます。

このお話は未亡人の目から見た『製パンアンドロイドリューべ』というお話に続きます。

少し未来にリューべは未亡人の所に現れて手助けします。

そして平方米男も。

 

製パンアンドロイドと修造  おわり

 

 

読んで頂いてありがとうございます。

このお話は未亡人の目から見た『製パンアンドロイドリューべ』というお話に続きます。

少し未来にリューべは未亡人の所に現れて手助けします。

そして平方米男も。

gloire.biz/all/3877

 

そしてその何年も何年も先の話

 

修造はパンで作った小さな薔薇の指輪を平方に渡した。

 

「お幸せに」

平方は修造に作って貰ったパンの指輪を利佳に渡して「今度一緒に本物を買いに行きましょう。勿論前のを外す事はありません、二つすればいいんじゃないかと思っています」

「平方さん、ありがとう。これからはリューベと3人で仲良くやっていきましょう」そう言ったかどうか、それはまたいつか。

 

後書き
製パンアンドロイドリューべのお話が気に入って何度も読んでくれた女の子がいて、それがとても励みになりました。
このお話には自分の希望や願いが込められています。


2023年10月24日(火)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ パン屋日和

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ パン屋日和

 

「パンが沢山売れるのは晴天の日とは限らないんだ。今日みたいに25度前後で少し曇ってると買い物してる奥さんは「まあこのぐらいの気温で天気なら買ったものが痛まないからゆっくり帰れるわよね」と言うわけで、いつもより店内をゆっくり回って多めにトレーに入れる事になる。俺はそれをパン屋日和と呼んでいる、まさに今日みたいな天気の事なんだよ江川」

 

と秋口にお客さんで溢れ返る店内を見て修造は言った。

 

 

江川も確かにそう言われてみればその通りだと思った。夏場や冬場はテラスもあまり使われていないし、春や秋はすごくのんびりしている。

そう言うのも含めてパン屋日和だ。

「じゃあかき氷日和とかたこ焼き日和とかもありますね」

「だな」と二人で笑ってるとパン粉が「ねぇ卓ちゃん知ってる?女優の桐田美月とお笑い芸人のマウンテン山田が電撃結婚したんですって」とネットニュースを見せて来た。

「えっ!あの二人が?」

画面には二人が指輪を見せているところが写っている。

「私だけを見てくれる彼の優しさが何とかかんとかって書いてますよ修造さん。ここで一緒に仕事したのがきっかけかも」

「へぇ、そうなの」

修造は芸能にあまり関心がなく、本当は桐田の事をあまり覚えていない。

「それにね修造さん!由梨ちゃんと藤岡君がとうとう付き合ってるらしいですよ」

「お前よく知ってんな」

「はい、こないだ由梨ちゃんと電話してたらちょっと教えてくれたんです」

パン粉と江川がその話題で盛り上がっているので、修造は店内のパンの品出しに出た。

「いらっしゃいませ」と声をかけると、中には一緒に写真を撮ってくれと頼まれることもある。

修造の苦手な事の一つだが、最近は嫌がらずにちゃんと口角を上げて笑顔を作る。

なぜこんな野暮ったい自分と写真なんて撮りたがるのか不思議だが、その写真はSNSに上げられる。

江川とか凄い愛想良くてサービス精神もあるもんな。そんな事を考えていると「あの、すみません」と、70歳ぐらいの女性が声をかけて来た。

「お医者さんに糖質を減らせって言われてるのだけど何がお勧めなのかしら」

色々と迷っていたらしいので、修造はSAUERTEIG-ROGGENBROT MIT FRÜCHTEN UND NÜSSENと言うフルーツとナッツの入ったライ麦パンを選び、岡田にパン切り包丁とまな板を貰ってテーブルで薄くカットして一切れ渡した。グレーブラウンの生地の断面にはアプリコットやアーモンドとヘーゼルナッツ、その他のドライフルーツ、オーツ麦フレーク、亜麻仁などが鮮やかに見て取れる。

 

 

「ドイツパンは普段食べられていますか?」

「いいえ、菓子パンとか食パンが多いかしら」

「あまり馴染みがないかもしれませんが、ライ麦パンは低GI食品と呼ばれていて血糖値の上昇が起こりにくい。ミネラルや食物繊維も含まれていて、ドライフルーツはマグネシウムやカリウムなどのミネラルを多く含んでいます、そしてナッツもミネラル、食物繊維、不飽和脂肪酸が含まれている。これを食べたから健康になれるとは言いませんが、お腹が空いたらこれを食べるのは良いことかもしれません」修造は普段無口だがパンの説明になると饒舌になる。

「そうなのね」と言って渡されたパンを食べてみた。

思っていたより固くなくて生地には水分が多く、パサついておらず酸味が旨味に感じられ、それがマッチしてフルーツとナッツがより美味しく感じられる。

「あら、美味しいわ」

修造はまた口角を上げて笑った。

「こんな風に薄く切ってよく噛んで召し上がるとあまり沢山食べなくてもお腹が満たされる」

「やってみるわ」

と言う会話も、周りを人が囲んで皆写真を撮っていた。修造はパンを一口サイズに切って「これどうぞ」と言うと皆一斉に手に取りあっという間に無くなった。

それをみていた立花が「凄い人気ね」と呟くと、大坂が「さすが修造さんですね」と隣に立って返事をしてきた。あれから大坂は何かにつけ話しかけてくる、立花が要るものを先にとってくれたり、高いところの物を取ろうとするので「気を使わないで頂戴」と言われて、流石にアプローチが過ぎると反省したのか最近はちょっとだけ静かになった。

「修造さん、パン好きビクトリィの会長横田元子が取材に来る日ですよ」

江川がホワイトボードの予定表を見ながら言った。

「あ、本当だ、もうすぐ来るね」

岡田にそう言おうと思ったが、すでに店内に落ちたパン屑を掃除してくれたり、パンを綺麗に並べてくれている。

「いつもながら岡田には感謝だなあ」

しみじみとそう言ってると「修造シェフ」と横田が声を掛けてきた。

「この間は長々と車の鍵を探して頂いて本当にすみませんでした」横田は頭を下げた。

「いえいえ、見つかって良かったですよ、パン粉ちゃんのお陰です。あの後番組に出して貰ったんですか?」

「はい、パン粉ちゃん私の知らないパン屋にも詳しくて驚きました。しっかりしてますね彼女」

「そうですね、江川も世話になってる様です」

「さて、シェフ。店内でパンとシェフのお写真を撮りたいんですが、どのパンが良いかしら」

 


横田は店内を見回って「これですかね」と言ってトレーに修造拘りのプレッツェルやブロートを持ってきた。流石業界通、よく調べてある。もしこの時点から「わあ〜美味しそう!何がおすすめですかぁ?」と聞いてきていたら「何も知らないで来たな」とあまり相手にしないかも知れない。なので横田に敬意を表して少し深めの説明をした。特にドイツの修行時代の話やその時仲良くなった親友、世話になった師匠の事も話した。あまり表に出ない話だったので横田は大喜びでボイスレコーダーを回しながら特筆のメモも取っていた。

大会で優勝するという事は過去の話も有り難がられるものなんだなどという事は、この店を開店してから日に日に濃くなっていく。

そして横田の『リーブロ訪問!修造シェフに直聞き』という記事はパン好きビクトリィのホームページに載り、さらに忙しくなっていく。

こうなると時間内に仕事を納めるのは難しい。修造はそんな時、従業員になりたいと言う江川の知り合いからの電話を受け取る。「一人は製造もできて事務もできるの?有難いなぁ!そして仕込みの専門と焼きの専門がいるの?すぐ面接に来てよ!」

と電話を切って江川に知らせた。

「僕の知り合いですか?」

パンロンドかベッカライホルツの職人しか知らないので、誰かと思っていたら「あっ!塚田さん、三田さん、辻さん」以前(イーグルフェザーと言うお話で)鷲羽とヘルプに行ったベークウェルと言うパン屋で知り合った職人達が入って来たので江川は大喜びだった。

三人は江川を囲んで再会を喜んだ。

それを見ていた修造は江川にとって良い環境になって来たと安堵していた。

塚田は顔立ちがキリッとして頭の良さそうな奴だ。その塚田が言うには「僕たちのいたベークウェルは店長の横流しと使い込みが原因で経営が困難になっていました。それで社長があの店を閉めることにして、僕たちは他の店舗にバラバラに移動になっていました。そんな時に江川さんの居る店が開店したと聞いて三人で応募したんです」

「そうだったんだ、色々大変だったんだね」

「これから江川さんと一緒に仕事できるし、修造さんにも仕事を教えて貰いたいです」

「みんなよろしくね」

 

 

「はい」

四人は青春っぽく拳を合わせた。

 

その時

 

販売員の安芸川が店から「修造シェフ」と緊張した面持ちで内線をかけて来た。

「どうしたの?安芸川さん」

「し、市長が来られてます」

「えっ!市長が?」

店に降りてみると良い仕立てのスーツを着た貫禄ある女性と秘書っぽい細い男が立っている。

「いらっしゃいませ」修造が声をかけた。「あなたがここのシェフの修造さんですか、私笹目市長の富沢富美代と申します」と名刺を渡してきた。

「どうも」

「先日私の母がこちらで食べたパンがとても美味しかったと話しておりました。それ以降シェフの話ばかりしております。あなたは世界大会で優勝さなったシェフだそうじゃないですか」

「はあ」

「実は今度笹目中央公会堂で一ヶ月間地域おこしのイベントがあります。イベント会場ににこのお店の出店を記念してパンで何かを作って頂けたらと考えております」

パンで何かを作るって随分ぼんやりしてるなと思って聞いていると「シェフが母に長い名前のパンをテーブルでカットして下さった話を何度もするもので、シェフの事を調べて貰ったらとても立派な着物の女性をパンで作ってらっしゃった。それでどうでしょう、イベント用にパンで大型の飾りパンを作って下さいませんでしょうか」

修造は以前パンの試食をして貰った婦人の事を思い出した。

「あの奥さんの娘さんでしたか、勿論力になりたいけど、もっと長持ちする芸術作品の方がいいんじゃありませんが?残念ながら重みで撓んできたり劣化したりするものなんです」

「そうなんですね、何かいいアイデアがあったらまたお知らせください」

「考えときます」

 

 

市長のお母さんの為なら頑張りたい気持ちはある、だけど他にもっとあるだろう、ブロンズ像とか油絵とか。と言いながら修造の中ではアイデアが大きく膨らんでいく、頭の中でどんな形でどんな大きさで、どこに置くんだろう、どんな人が見るんだろうなどなど考えが止まらなくなっていく。

そして作る工程を考え出すともう止まらない、イラストを描いてここのパーツはこんな風にして、ここはこんな色にして。

 

そしてとうとう作り始めてしまう。

 

ーーーー

 

何日か後

市長の秘書の島田が来た。

「田所様、あれからお考え頂けたでしょうか」

「そうですね、イベント期間中だけ飾っておいてあとは持って帰って店に飾っておくか、欲しいと言う人にあげてもいいとか考えてました」修造は島田に設計図を渡した。

「なんと立派な!ここまで考えて頂いてありがとうございます。ではその様に進めさせて頂きます」

話してると江川と塚田がやって来て「ねぇ、あれってねえ、大変なんだ作るの」と江川が「まさかただって訳じゃないんでしょう?材料費の事もあるし」と塚田が二人で秘書を挟んで言った。

「では帰ってその旨市長に報告してご連絡致します。会議で予算が通ったらお支払い可能です。材料費が分かりましたらメールでお知らせ下さい」

「頼んだよー」

うわ、俺ならそう言うの言い出しにくいなと修造は見ていた「凄いな2人とも」

 

 

そんな訳で修造の芸術作品は公会堂のイベントに飾られる事になった。

 

 

 

沢山の人に分かりやすい物をと考えて、パンのヴィーナスというテーマにする。

生命の息吹と未来への羽ばたきだ。

しかし修造のイメージを実現化するにはパーツの数が半端ないしとにかく重くなるだろう。それを支える為に土台も重くした。

「完成してから運んだんじゃ壊れそうだから現場で組み立てたいんですよ」

修造は秘書に電話した。

そしてイベントの何日か前に土台を現場に運んだ。

イベント会場は公会堂の外にあり、舞台と観客席がある。その上の大きな屋根は白いテントでできている。仮設ではないのでそこでは度々音楽ショーや野外映画会などが行われている様だ。

今回は地域おこしのイベントなので、リーブロはその町にある店という事で修造のパンの作品(パンデコレ)は舞台の後ろの真ん中に飾られる。

「まあここなら外とはいえ雨も掛からないしな、よほどの風が吹かないと大丈夫だろう」

 

 

その日から修造は工房でパーツを作っては会場に持っていって江川と二人で仕上げる日々が続いた。

修造と江川が水飴でパーツが外れない様に仕上げていき、冷却スプレーでそれを冷やし固めていく。

倒れてはいけないので裏側に角材を取り付けて柱に結んだ。島田が夜は誰かしらが悪戯するといけないので囲いを設けてくれていた。

「何日かかけて現場に作りに行ってるんだ」修造は工房で仕事中横にいた和鍵に説明した。

「私もお手伝いしに行って良いですか」

「うん、じゃあ今日の夕方現場に行ってパーツを取り付けてみよう」

「はい」

いつもは江川と来るのだが、今日は和鍵と細かいパーツの取り付けを行った。

作業中

修造がパーツを取り付けながら言った「不思議なものだな、最近まで全然知らない土地だった所で受け入れられて、イベントで一か月の間皆んなに見て貰えるものを作ってる。こうしてパンの可能性を広められるのは良いことだ」

「パンってスーパーに並んでるものだと思ってました。今は違いますけど」

「パンにも色々あるんだろう、この際驚く様なものを作ろう」

「はい」

近くにいると修造の燃える様な熱意と作品から情熱が伝わってくる。

過去に和鍵の周りにいた人を裏切ったり嘘をついたりする大人とは全く違う種類の修造の人間像に対して強い憧れを抱いている。

「私ももっとパンの勉強がしたいです」

「明日手ごねをやってみよう。普段はトッピングとか成形ばかりだから目先を変えてみようか」

「はい!お願いします」

最近の暗い顔に比べて和鍵希良梨の顔色が明るくなった。

 

ーーーー

 

とうとうパンデコレは出来上がった。

 

 

イベント会場には明日の準備で多くのスタッフがいて、皆作業の手を止めて時々振り返っては高さ2メートル50センチで見た目にも圧倒される『パンの女神』を珍しがったり感嘆の声を上げたりしている。

土台の形は修造得意の組み立ての技法で複雑な形を成し、細かなパーツは執念によって作られ組み立てられた。宝石の様な色合いは色を変えた飴細工によって成されていて、輝きを添えている。

 

島田がやって来た「田所様、いやー驚きました!凄いものが出来上がりましたね。明日から一ヶ月間はとうとうイベントの日です。毎日色んな地域の町おこしがやって来て、土日は特に人が動いて賑わうでしょう。市長もお喜びです。こちらイベント終了後は第一庁舎のロビーに飾られる事になっています」

「建物内に運んで貰えるなんて有り難いです。それと礼金まで払って頂いてすみません」

「文化芸術予算から経費が出ました。まさかこんな綺麗で大きいものがパンでできるなんて思いもよりませんでした」

「どうも」

「では明日オープニングで挨拶をお願いしますね」

「えっ?挨拶!?」

「はい、スタッフの朝礼の挨拶みたいな感じでお願いします」

「何を話せば良いんですか」

「シェフの事を知らない方の為に経歴とこの作品を作った訳とかでも良いですし」

「うーん、考えてみます」

「ではよろしくお願いします」

修造は家に帰ってただいまのハグをしながら妻の律子にその事を話した。

「挨拶かあ。明日は来賓客の中にはイベント関係者とか市の有力者とか来そうね」

「そんな人達に挨拶とか苦手だよ」

「イベント開催のお祝いと感謝の気持ちを伝えたら良いんじゃない?」

「そうするよ、おめでとうございますありがとうございますとか言って時間を稼ぐよ」

修造は原稿を書き出した。

笹目市について少し調べてみる。産業は山と畑が多いせいか農業が盛ん、特産物はイチゴや梨など。

他に工業製品の会社も多い。

「うーん、挨拶とは関係ないなあ」

修造は頭を悩ませた。

 

次の日

イベント開催の時刻になり、階段状になった座席には地元の人や来賓客が並んで座っていた。

市長の挨拶が過ぎ「世界大会で優勝したパンのシェフに作品を作って頂きました。盛大な拍手をお願いします」と言う言葉と共にパンデコレの前に掛かっていた垂れ幕が外される。

人々は驚いて「あれパンで出来てるの?」と口々に言っている。

「それでは田所シェフ、皆さんにご挨拶をお願いします」

え!

修造は多くの人を前にして用意していた挨拶を忘れてしまった。

なんだっけ?と、客席に座っている律子の顔を見た。

律子は子供達と並んでいて、頑張ってと拳をグッと握ってて見せた。

 

 

仕方ない、普通の事を普通に話すかと覚悟を決めた。

「あの、田所と言います。リーベンアンドブロートは生活とパンと言う意味で名づけました。毎日の生活にパンは欠かせない、そこには色んなライフスタイルがあって、色んな場面で色んなパンが食べられている。縁あってこの笹目市に店を構えたんですから地元のお客さんの生活にリーベンアンドブロートのパンを取り入れて頂けたらと思っています。パン屋さんの仕事は過酷と思ってる人が多いかも知れません。たとえ作ってる所が誰にも見えなくても出来たパンがお客さんといい出会いがあればそれでいい。これからも俺はその為に努力を惜しまないつもりです」

と言って頭を下げた。

剛毅木訥、仁に近し

修造は頑張った。

人々は修造に拍手を送り、無事オープニングイベントが始まった。

 

ーーーー

 

「修造さん、秋なのに季節はずれの台風が近づいて来てるんですよ。三日後の夜にはこの近くを通るらしいですがあのパンデコレは大丈夫なんでしょうか?」

心配する江川に「明日辺り囲いを強固にしようか?」と答えた。

「そうですね、役所の方にも頼んでみたらどうでしょうか?」

「うん、俺電話してみるよ」

ところがその日の夕方にわかに風が強まって来た。早上がりの大坂と立花が心配して見に行くか相談している、それを和鍵も聞いていて、三人で行く事になる。

「修造さん、俺達帰りに見に行って来ます。シートと紐を持っていきますね」

「ありがとう大坂、俺も後で行くよ」

修造も作業が終わったら行く旨を伝えた。

三人がバスで駅前に移動して現場に立ち寄ったら会場の中に外から中心に向かって風が吹き、囲いが倒れていた。

パンの女神がグラグラしている。急いでシートを巻き付けようとしたが風で旗めいて上手くいかない。

大坂が「三人で囲いにシートを巻いて動かない様に固定させよう。俺が囲いを押さえてるから紐で巻いて、その後紐を両側の柱に結ぶ」

しかしダンボールなどの四角い荷物じゃあるまいし、無理に巻くと羽や複雑なパーツが折れる。結構困った状態に陥っていると横風が吹いた「あっ」パンの女神が横倒しに倒れそうになり急いで和鍵が支えたが突風が吹きつけ固定していた角材が外れ、バリバリと言う音と共に和鍵が下敷きになった。

「和鍵さん」バラバラになった破片を避けて大坂が引っ張り出した。

「すぐ救急車を呼んで」ベンチのところに和鍵を運びながら立花に言った。

「パンの女神が」和鍵は破片を掴んで壊れたパンデコレを見てショックを受けていた。

「救急車が来た!」立花が走って救急車から担架を出す隊員に声をかけに行った。

痛いところを色々聞かれている。どうやら手首と足首を痛めた様だ。歩けないので担架に乗せられて移動したので大坂は立花も救急車に乗せようとした。

「パンデコレはどうするの?」立花はパンの女神の方を振り向いた。

「ここは危ないから一緒に行って。俺は修造さんに連絡するよ」と言って立花を救急車に押し込んだ。

「私が残るよ」

「ダメダメ危ないから」

 

 

救急車の後ろのカーテンの隙間から心配そうに覗いている立花に大丈夫と目で合図していると救急車がサイレンを鳴らして動き出した。和鍵を診てくれる病院が見つかったんだろう。遠ざかる立花の視線を見送った後、修造に電話して起きた事を話した。

「大坂ありがとうな。俺は立花さんに電話して行った先の病院に向かうよ。危ないからもう帰っていいよ」と言われるが、紐もシートもバラバラになったのをまとめて、本体を横にした後折れた大量のパーツを集めた。「これって元に戻るのかな」

打ちつけてくる強風の中、なんとか一人で全てをシートで覆い紐を左右の柱に渡して結んだ。

その後立花に電話して病院を聞いて駆けつけたらもう修造が立花から話を聞いていた。

 

 

「修造さんすみません。なんとかしようと思ったんですが、風に煽られて和鍵さんが下敷きになっちゃって」

「二人が悪いんじゃないよ。ありがとうな、もう帰っていいからね」と言って修造は和鍵の病室に入った。

それを見送ってから立花が「あれからどうなったの?」と大坂の服についた落ち葉を取りながら聞いた。

「うん、とりあえずまとめてシートでカバーしたよ、天気が良くなったら治るかどうか修造さんに見てもらおう」

「そうね、和鍵さんは足を痛めたけど検査は明日になるらしいわ」

「今日は入院かな」

「さっき和鍵さんが家族に電話してたわよ。すぐ来ると思う」

「そうなんだ。あんなにパンデコレを心配してたんで、思ってたよりいい奴なんだなと思ったよ」大坂は病室の方を向いて言った。

「こないだは修造さんにパンの仕込みを真剣に教わっていたわ。今日はカンパーニュを教わってた」

「そうだったな」

と、そこで会話が途切れたので

「風が強いから送って行くよ」と会話を繋げた。

「いいわよ、また帰り道が分からなくなるわ」

「うっ!だ、大丈夫だと、思います、それに道々目印になるものを見ながら歩いたら良い。何かいい店があれば言ってください」

「途中美味しそうな町中華の店があるわ、いつもいい匂いがするの」

「それだ!」

「なんだかお腹空いたわね、もう7時過ぎてるもの」

「じゃあそこで飯食って帰りましょう」

「そうね」

「こんな風に話してるなんて俺たち随分仲良くなりましたよね」

「そうかしら」

さっきは随分心配そうだったのに立花は気のない感じで答えた。

 

ーーーー

 

一方病室では手当の終わった和鍵がベットに横になっていた。

「悪かったな和鍵さん。うちの作品を守る為に怪我をさせてしまった。本当に申し訳ない」修造は頭を下げた。

「治療費と休業保証はさせて貰うから」

「骨折はして無いとお医者さんも言っていました。すぐ退院と思うので大丈夫です。私修造シェフの事が大切なんです、だからあれを守りたかった。あんなに何度も作りに行ってたのに結局壊れてしまった」

「自分を責めるのは間違ってるよ」

その時和鍵の両親が横開きのドアを勢いよく開けて、修造を見るなり激昂しながら入って来た。

「和鍵さんのご両親ですか?この度は申し訳ありません」「お前か!うちの娘を退職させようとしたパワハラ上司は!今度はうちの娘を怪我させて!手をついて謝れ!今度こそ訴えてやるからな」と詰め寄った。

「やめてよ2人とも!こんな店こっちから辞めてやる!だからもういいでしょう。疲れたから今日は2人とも帰って」

と言って枕を怪我してない方の手で投げつけた。枕は両親にあたる前に修造がキャッチしてベッドの足元に置いた。

「大嫌い!訴えたら許さない!」

これまでずっと可愛がっていた娘に大嫌いと言われて父親は狼狽えた「何故なんだ、お前の為に言ってやってるんだよ」

「頼んでないわよ!早く帰って」言われた通りにする習性が染み付いている母親は「お父さん、また明日来ましょう、もう辞めるって言ってるし、それでいいでじゃない」母親にグイグイ押されて父親は病室から消えた。

修造はしゃがんで和鍵の顔を覗き込んで言った。

 

 

「今俺を庇う為に辞めるって言ったんだろう。本心じゃないじゃないか」

「いえ、もういいんです」

和鍵はそれ以降、下を向いて何も言わなかった。

大切と言った事に返事が欲しかったが、聞かなくても分かっている。修造にとって律子が一番なのは見ていて分かる。

病室で一人窓の外の吹き付ける風の音を聞きながら「もう色々無理だから」と呟く。

 

 

夜九時頃

大雨が降っていた。

修造は一旦リーブロに戻ってから和鍵の家を訪ねた。

「何しに来た!」

さっきのイライラもあって、父親は玄関先で修造を叱責した。

「先ほどは申し訳ありませんでした」

大嫌いとか訴えたら許さないと娘に言われたばかりなので裁判の話はしなかったが怒りが収まらない。

「うちの娘に怪我をさせて!どうしてくれるんだ」

その後ろで母親は何故娘がこの男を庇うのか不思議で観察する

男らしい責任感のある態度

一本気な感じ、ひょっとして娘はこの男の事が。そう思いながら口に手を当てて修造を凝視した。

修造はバッグから取り出した和鍵のパンを見せた。

「和鍵さんはうちの社員をいじめていました。その後その社員と勝負をして負けたんです」

「希良梨が」

「はい、だけど段々変化してきたと思います。最近は仕事に向き合っていた。俺も和鍵さんに本格的にパンを教え始めた所でした。これを見て下さい」

「これはなんだ?」

「このパンはミッシュブロートと言って小麦とライ麦を配合したパンです。和鍵さんが生地を作ったものです」

そう言って父親にパンを渡して話を続けた。

「今日パン作りをしていた時は辞める様子なんて微塵も無かった。今日は俺を庇う為に辞めると言ってしまったんでは無いですか」

「希良梨があんたの所の職人をいじめていたのか」

「はい、でも今は違います。上手くやっていけそうでした」

和鍵希良梨が高校生の時、担任に娘が同級生をいじめていた事があると聞いたが全く信じずに『うちの娘がいじめなんてする訳がない』と突っぱねて話も聞かず、校長に捻じ込んで担任を糾弾して辞めさせた事がある。その時娘の希良梨はいかにも自分は悪くない様に立ち回っていた。

ところが今は遠回しに店やこの男を庇っている。

「一体何故なんだ」父親の呟きを聞いて母親が言った。

「オーナーの事が好きなのよ」

「えっ」修造と父親が同じぐらい驚いた声を出した。

「だから辞めると言ったのよ。この責任はどうとってくれるの。あなた結婚してるんでしょう、離婚しなさいよ」

「離婚なんてしません。急に何を言ってるんですか」

「それがあの子の望みだからよ」

「飛躍しないで下さい。そんな話をしに来たんじゃない」

「ママ、何を言ってるんだ」父親は両手を振って母親を遮ったが、父親越しに続けた。

「さっきあんたも希良梨が自分を庇う為に辞めると言ったって言ってたじゃない。責任取りなさいよ」

「馬鹿な事を言うなママ」

「問題をすり替えないで下さい。本当の事に目を背け過ぎだ。そんな発想子離れしてないのが原因でしょう。娘さんは職人として自立しかけている、俺はその事を話しに来たんだ。その為にパンを見せたのに」

二人とも話が通じず変な方向に向いてきた。修造にすれば自分のところの職人を大事に育てたいからやってきたのに。

「このまま和鍵さんが成長するのを邪魔してばかりではうちも辞めてご両親とも上手くいかなくなるんじゃないですか?もう変わらないといけない所まで来てるんですよ。あなた達が捻じ曲げてきた結果でしょう」

二人とも黙ってしまった。

心当たりがあり過ぎて困っている様だ。

「俺は明日和鍵さんともう一度話してみます。今日このパンを前にして、今後の事をよく考えてみて下さい」

そう言って出て行った修造をそのまま見送り、二人は食卓にミッシュブロートをおいて向かい合って座った。

「希良梨は大人になってきたんだな。あの男がさっき希良梨は段々変わって仕事に向き合ってると言っていた」

「そうね」

「あの男の言う通り私達も考え直さないといけないな」

和鍵の父親はパンを母親に渡した「これを切ってくれよ。希良梨の作ったパンだ」

「そうね、頂いてみましょう」

 

 

 

和鍵の母親はパン切り包丁でカットしたミッシュブロートを皿に乗せてだした。

クラストは力強く、クラムはしっとりとしている。

「美味しいわね」

「そうだな、こういうパンって固いと思っていたが意外と甘いもちもちした食感なんだな」

「これを希良梨が作ったのね。私達あの子を子供扱いして、気持ちも良く聞かずに決めつけてた所があったわね」

「段々色んな経験を積んで大人になっていくんだな」

二人は生地の断面を見ながらしみじみと言った。

 

ーーーー

 

次の日

強く雨と風が吹きつけていた。

修造は仕事終わりにもう一度和鍵の病院を訪ねた。

「具合はどう?改めてうちのパンデコレを守ろうと怪我をさせてしまった事、申し訳ない」修造は頭を下げた。

「もう大丈夫です。明日退院なんですが、ただの打ち身だったので入院しなくてもよかったのに」

「怪我に変わりはないよ」

「パンデコレはどうなりましたか?」

「大坂が上手くまとめてくれたそうだから後で見に行ってみるよ」

「はい」

「昨日辞めると言っていた事で、あの後ご両親と話してきたよ」

「そうだったんですか。私も昨日よく考えました。今までの自分は間違っていた。真実を捻じ曲げてきたんだなって」

「これからもっと変われるよ。ご両親も和鍵さんの変化と共に変わってくれるんじゃないかな」

「うちの親はやり過ぎるんです。私も両親に合わせてたし、両親も私に合わせていて、それが悪い方にいってたなって思います。江川さんの事、すみませんでした。辞める前に謝ろうと思ってました」

「昨日のことならもう裁判にはならないしだったら辞めなくても良いんじゃない?」

「いえ、もう無理を通したくない。私一人で暮らして新しい環境で一から頑張りたいです」

「そうか、わかったよ。応援してるからな」

「はい」

 

ーーーー

 

嵐が過ぎた後のイベント広場は落ち葉があちこちに散乱して荒れていた。

「今日はどんよりしていて涼しいパン屋日和でしたね、お店も沢山お客さんが来てましたね修造さん」

「だな、江川」

修造と江川はパンのヴィーナスの修復ができるかどうか見に来ていた。

「大坂がちゃんとまとめてくれたんだよ」

よく似たパーツを集めてあったので助かる。前の様にはいかないが、遠目には分からないぐらいには治せるだろう。

「イベントが終わったらこれはもうダメだな。腕も折れてるし」

「残念ですね、あんなに頑張ったのに」江川がシクシク泣きながら修復していた。「仕方ないよ形あるものはいつか壊れるんだ」

「だって」

 

「江川」

 

「和鍵さんが辞めるんだ」

「僕お見舞いの電話をした時和鍵さんから直接聞きました。僕に『今までごめんね』って言ってくれました」

「そうなんだな。なんか辛いな。色々あったけど一生懸命やってくれていた」

「予想もつかない事が沢山ありますね」

「それでもひとつひとつ乗り越えていかないとな」

江川はパーツを引っ付けながら言った「あの」

「うん」

「僕も言ってなかった事があります」

「え?」

 

 

江川はずっと修造に言わなくてはいけないと思っていた事があった。

今二人きりなので言うべきかと思っていた。

「僕本当は男の身体なのになんだか男でも女でもなくて、それで心が不安定なんです。愛莉ちゃんだけがこの事を知っています」

「うん?」

修造は手を止めて頭の中でもう一度江川の言う事を復唱した。

修造にとって予想もつかない事だった。

「そうだったんだ。俺は鈍いから江川の悩みを全然気が付いてやれなかった。きっと辛かったんだろうな。だけど俺にとって江川は江川なんだ。今までと変わらず接するよ。教えてくれてありがとうな」

「僕もこれからもずっと今まで通り修造さんとパンが作りたいです。面接で修造さんと初めて会った時、修造さんは丁度生地を捏ねていて、凄く無心で誰が自分の事をどう思ってるかとかそんな事関係ない生き方もあるんだって思いました。僕もそんな風にに生きられたら良いと思います」

これからもと聞いて、修造は2年でお前を一人前にする計画を練っているんだからと心の中で思った。

「ふふふ」修造が建てている計画、それはどんな事なのか。

 

パン屋日和 おわり

 

 

修造の計画の前に

次のお話は製パンアンドロイドが生まれるお話です。

どうぞおおらかな気持ちでご覧ください。

 

 


2023年09月06日(水)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ  満点星揺れて

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 満点星揺れて

 

ここは笹目駅から少し離れたリーベンアンドブロート

その工房で江川は修造の例の謎のドイツの歌のハナウタを久しぶりに聴いた。

グーググーグーグーと聞こえてくる。

大坂がパンを焼きながら「これなんの音かなあ」と言っている。

修造は紙に模様をカッターで切り抜いて大きなパンに乗せて粉を振った。そしてステンシルで絵を描きオーブンに入れた。

ああ〜

大地!

もう一歳だ!早いなあ。

ずっとずっと可愛いままだ!

「江川、オトータンって呼んでくれるんだよ!」

江川が「もう一歳なんですね〜」と感慨深げに言った。

「感激だよ!最近あまり会えなかったからこれが焼けたら持っていこうと思って」

「僕その間頑張るから行ってきて下さい」

「ありがとう江川」

「大地ちゃんの一升パンですか?」

「そうなんだよ大坂」と言って修造はオーブンを覗いた。久しぶりにニコニコしている。

大坂と森田は2人でパンを焼きながら話し合った。

「結婚かあ、俺はいつか結婚とかする気がしないなあ」森田が言うと「俺なんてしばらく彼女もいないのに」大坂が答えた。

「身近な女性は?」

「いないよ全然」

「前の所は社内恋愛禁止だったよ」西森が思い出して言った。

「社内恋愛ってどうなるの?」

「上司に呼び出されて色々聞かれて1人移動になってたよ」

「えっそうなの?一店舗しかないと移動もできないね」

「気をつけよ、というか今は恋愛とかする人も少ないんじゃない?」

「そうかなあ」

立花が「はいこれ、話に花が咲きすぎよ」と注意してきた。

「すいません」と西森と大坂は頭をペコっと下げて立花が渡してきたナスと鶏のタルティーヌを受け取ってオーブンに入れた。

黙ったまま作業して大坂は思った『立花さん素敵だなあ、いやいや社内恋愛はいけないらしいし。立花さんと付き合ったらどんな感じかな。やっぱ俺頼りないから叱られたりするのかな。こら!いけないぞ!なんてな』大坂は馬鹿みたいに1人顔を赤らめた。

「ただいま、ほら見て律子」

家に帰った修造はお帰りなさいのハグをして、ケーキと一升パンを律子に見せた。

「すごいデザインね、ケーキも可愛いし、力作ね」

「だろ、早速大地に一升パンを背負わせてみよう。大地こっちに来て」修造は大地に向かって手を広げた。

「オトータン」大地はヨチヨチと修造の所に来た「パン」「そう、パンだよ」

そう言っていかついデザインの一升パンを座ってる大地にそっと背負わせてみた。初めて重いものを背負ったので泣くかなと思ったが、顔を真っ赤にして、机に捕まって立ち上がった「うわー大地すごい力持ちだね」とはしゃいでいる。

 

 

長女の緑(みどり)はそんな両親の様子を写メして江川に送ってやった。

ピロリロリロピロリーン

「あ!メールが来た?修造さんかな?」とメールを開いた江川は笑顔になった「緑ちゃんからだ。ウフフフ、ねえ見て愛莉ちゃん」

店で作業中の小手川パン粉、本名瀬戸川愛莉に修造の写真を見せた。

「えっ、あの渋い修造さんが家ではこんな笑顔になるのぉ」

「そうなんだ、家族の事になると表情がガラリと変わるんだ」江川はイベントの帰りに必ず妻の事や子供の事をのろける修造を思い出して言った。

「修造さんってどんな場面でも全力なのね」

「今度娘さんの緑ちゃんと空手の試合にでるらしいよ。ヌンチャクの型とか言うのを2人でやるんだって」

「ヌンチャクって何?」

「えーと、二つの棒が紐で繋がった武器?」

「ふーんそんな物が武器になるのね」二つの棒を紐で繋げる?ヌンチャクを見たこともないパン粉にはそれがどんな形なのか想像つかなかった。

ーーーー

その頃

パンロンドでは

「なあ杉本」

「なんですかあ藤岡さーん」

「この漢字知ってる?」とスマホの画面を見せた。躑躅と書いてある。

「なんて読むんですかあ?」

「ツツジだよ」

「へぇ〜むずいっすねぇ」

「手に書いたら覚えられるんじゃない?こういうの得意でしょ?」

 

 

藤岡は見本としてホワイトボードに躑躅と書いた。それを杉本が手の甲に書く。

その藤岡を見て、由梨は誰にもわからない様に小さなため息をついた。

藤岡はとうとう修造の店で探していた立花を見つけたが、あれからその事について何も言わない。

チラッと藤岡を見たが、普段と変わらない様に仕事をしている。

どうなったのかな、もう2人は再会したんだろうか、それともまだ何もないままなのかしら。

この半月程気になって仕方ない。

「あの」

「なに?由梨」

最近動画を撮りに行ってないんじゃありませんか?」

「うん、そういえばそうだね」

もう撮る必要が無くなったからだわ。修造さんの店にいてるあの立花さんを見つけたから。

 

ーーーー

 

リーブロにて

夕方

帰り際、最近では自分から誰にも話さない和鍵に大坂は声をかけた。

「やるならやるでみな同じ向きを見いてた方が仕事しやすいんだ。1人だけ流れと逆に行くのは疲れるだろ。江川さんに負けた以上上手くやっていかないと。初めは愛想笑いでもいつか本気で笑える日が来るって!な!明日から生まれ変わろう!」

明日に向かって拳を振り上げる、声が元々大きい大坂の事を心の中で『ウザ』と思ったが、確かに言われた通りだし、ここではもうそうする以外に無いのはわかっている。

和鍵は江川が仕事しやすい様に型やカップにアルミホイルを引いたりして前日準備を昼の分までやってから帰った。

 

ーーーー

 

東南商店街にある由梨の両親が経営している着物屋『花装(はなそう)』では、明日の浴衣イベントに参加する為に準備で大忙しだった。

東南駅からは随分離れた大きな街の南会館という所で着物屋が集まって行う『夏の大浴衣市』があるのだ。

由梨もこの日はパンロンドを休んで、浴衣を着て手伝いに行く事になっている。

父親と由梨は車に着物やら小物やら展示用のグッズを沢山乗せて前日準備に出かけた。

「あ、ここはリーベンアンドブロートの近くだわ」父親の運転する車は笹目駅の横を通り過ぎ、三つ先の駅を曲がったすぐの所に着いた。

着物を展示しながら由梨は立花の事で頭がいっぱいになった。

こんなにクヨクヨするのならいっそ立花さんに会いに行こうか、それとも藤岡に聞こうかと迷う。

次の日、由梨は浴衣に着替えて親子三人で会場に向かった。

両親は傷ついた由梨の事をとても心配していたので、最近の沈んだ由梨の事が気になっていた。

会場では由梨の浴衣姿を見て同じ物が欲しいと言う客や、帯について色々聞いてくる客の対応に追われていて、しばらくは藤岡の事が頭から離れていた。

 

 

忙しい中、客に丁寧に説明して浴衣の種類や履き物まで見て貰った。

「由梨、後は私達でやるから帰って良いわよ。駅はわかるわね?」母親が声をかけた

撤収作業を終えて会場から帰ると夜遅くなるので、明日仕事の由梨を心配して少しでも早く返そうと思ったのだ。

「電車で」

急に笹目駅の事が頭をよぎる。

由梨は電車に乗ったが、三つ目の駅で降りてバスに乗った。

少し歩くと修造の店だ。

「来てしまった」

強い日差しの中、日傘を差して店へのアプローチを歩く。

それをパン粉が見つけて江川に言った「ねぇ、あの人パンロンドの人かな?」

「あっ由梨ちゃん」と言って江川が走って出迎えた。

「わあ、由梨ちゃん綺麗、素敵な浴衣だね」そう言われてまるで勝負服で来た様で恥ずかしい。

「浴衣イベントの帰りなんです。あの、立花さんはいますか?」

「えっ?知り合いなの?ちょっと待っててね、呼んでくるから」

江川は走っていって立花を呼んできた。

全く初対面の浴衣の女の子を見て驚いていた。

「はい、立花ですが何か御用ですか?」

「あの、私藤岡恭介さんと同じ店で働いている者です」

「えっ」

急に藤岡の名前が出てきて立花は驚いてベンチに座り込んだ。

浴衣姿の女の子が藤岡の名前を出してきた事も不思議でならない。

「どういう事か説明して貰えますか?」

 

 

「藤岡さんは立花さんを探してパン屋さんを一軒一軒訪ねていました。その事はご存知でしたか?」

「いいえ、知らなかった。あなたはその事を知ってるのね」

「はい、だからって私達何もありません。藤岡さんはここで立花さんを見かけてから様子がおかしかった、でもその後藤岡さんが何を考えていたのかはわかりません」

「だからここに来たのね」

「長い間パン屋さんを見て回るのは大変だったと思います。それがあの人の気持ちです、もしご存知無かったのなら言わなくちゃいけないと思って、その事を伝えたくて来ました」

「貴方はそれで良いの?」

立花は由梨の気持ちを汲み取って質問した。

よくはない、よくはないが

このままにして良いのかもわからない。

由梨が困っていると立花が「わかったわ、一度藤岡くんと話してみるわね」と微笑んだ。

由梨から見た立花は凛とした立ち居振る舞いの素敵な大人の女性だった。

帰り道百日紅(さるすべり)の花の咲く駅への道を歩きながら「私は何をしてるのか」と情けなく思う。

そこへ車が追いかけて来てクラクションを鳴らした。

「由梨ちゃん」

「江川さん」

「由梨ちゃんが浴衣で来たって言ったら修造さんが送っていってあげてって」

「すみません」

「僕も久しぶりにパンロンドに行こうっと」

江川は由梨を乗せて、車を東南商店街に向かって走らせた。

「みんな元気にしてる?」

「はい、藤岡さんが杉本さんに難読漢字を沢山教えてました。この間は躑躅って言う難しい漢字を」

「へぇ、会いたいなあ杉本君や藤岡君」「修造さんのお店はどうですか?とてもお客さんが多いですね』

『そうなんだ凄く流行ってる。車で来る人が多いよ。駐車場が広くて便利みたい」

「パン粉ちゃんがいましたね」

「そうなんだ、僕達仲良しになってリーブロを手伝っってくれてるんだ」

「段々パンロンドの人達の知らない生活になっていってるんですね」

「そう、色々あるけど乗り越えて行けると思うよ」

と、そこで車はパンロンドの前に着いた。

「親方ー!」江川が親方のところに飛んで行った。

「お!江川!元気そうで良かった安心したよ」

「はい、少し痩せたけど段々体重が戻って来ました。今はパンの味見し過ぎかな」とお腹をポンポンと叩いた。

由梨は江川の後ろに立っていて、あははと笑うみんなの向こうにいる藤岡と目があった。由梨にアイコンタクトを送っている気がする。

何故江川と帰って来たのか、一人でリーブロに行ったのか、そして立花に会ったのか?そう思っているのではないだろうか。

 

 

心の中で藤岡に

『私、立花さんと会って来ました。勝手にごめんなさい』と詫びた。

「江川さん、ここまで送って貰ってありがとうございました。私片付けがあるので帰ります」江川と皆に会釈して花装に戻った。

それを見送った藤岡は「一度立花さんと話をしないといけないな」と呟いた。

 

ーーーー

 

その日の夕方、誰もいない駐車場で修造はヌンチャクの練習をしていた。

もうすぐ試合なのにあまり練習してないので焦る。

それを見て大坂が飛んで走って来た。

「修造さん、俺も昔空手やってたんです」

「そうなの?」

修造達は急に組み手を始めた。

蹴りを肘で受け止めたり、突きを鉄槌で落として防いだりしてるのを見て、パン粉と安芸川は「ケンカ?ではないですよね?楽しそうに見えます。あははって笑ってますよね」「痛そう」「戦ってる」など遠巻きに見ていた。

パン粉が置いてあるヌンチャクを見つけて「これがヌンチャクなの?想像と全然違ってた」と笑いながら江川に言った「愛莉ちゃん、これを使った演武もあるんだよ」

段々みんなが集まって来て「趣味や特技があるって良いわね、楽しそう」と眺めていた。

 

 

大坂はウズウズして「俺にもヌンチャク教えて下さい」と申し出た。

リーベンアンドブロートLeben und Brot通称リーブロは生活とパンという意味で、修造がパンと生活は離すことができないとして付けた名前だ。

初めはどうなるかと思ったが、徐々に落ち着きを見せ始めてきた。

こうして修造の人生にとって新しく近しくなった大坂と空手を楽しむ日が来たのが不思議で、そして温かい気持ちになれるものになった。そしてそれはやっと平穏を取り戻しつつある江川の笑顔のおかげでもある。

今自分の周りを取り囲む、ニコニコとしたり、あきれた顔の皆んなに感謝している。

 

ーーーー

 

さて

藤岡は立花にやっと連絡をとった。

二人は仕事終わりに笹目駅の近くのカフェで待ち合わせた。

 

 

遅れて来た藤岡はニコッと笑って

「久しぶりですね、ご無沙汰してましたがお元気でしたか?」と挨拶した。

藤岡は相手に対して理想の言葉をつい言ってしまう習慣があった。

「久しぶりね藤岡君。貴方がパン職人になってるなんて知らなかったわ。修造さんの後輩だったのね」

「今はとても良い雰囲気の職場にいます。先輩にも仲間にも恵まれていますよ」

「修造さんのお店も開店当時に比べて落ち着いて来たわ。仕事しやすいわよ」

「修造さんも始め悩んでたので、軌道に乗り始めて良かったですね」

立花はコーヒーカップに砂糖を入れてクルクルかき混ぜていたが手を止めた。

「この間、パンロンドの花嶋さんが突然やって来たわ。こうやってまた藤岡君と会えるのも花嶋さんのおかげね」

「やっぱり、由梨に会ったんですね」

「ええ、多分凄く勇気がいったと思うわ。貴方が私を探してパン屋さんを一軒一軒訪ねていた事も教えてくれた」

「由梨が」

「ええ。なんでも話せる仲なのね」

「そうですね、由梨には何故かなんでも話してしまうんです」

「心が通じあってるのね」

「そうですよ、俺たちみたいにこんな表面上の腹の探り合いみたいな話しなんてしない。こうやってあった以上貴方は俺に本当の事を言わなくちゃいけない。何故俺に連絡先も知らせずに消える様に去ったんですか」急に藤岡は真相の真ん中に向かってハンドルを切った。

「私を恨んでるのね」

「途中そんな時期もありました。でもそれだけじゃない、俺が転職してパン職人になったキッカケは情報を集めて貴方を探しやすいと思ったからです」

「そうなのね」

立花はまたスプーンでクルクル混ぜていたがやがて切り出した。

「あの時は私達とても忙しかったわね、どんどん人が入れ替わる中二人で乗り切ろうとした」

「俺は信頼し切っていた」

そう言いながら別に恨み言を言う為にこんな話ししてるわけではないと思う。

自分はひょっとしてその事を聞く為に探していたのか、会いたいから探していたのなら自分が勝手にやってただけじゃないか。

「すみません」

「言われて当然よ。信頼を踏み躙ったわ。あの時私は医者に療養を勧められていたの。でも気を遣って何も言わなかったから逆に嫌な思いさせたのよね」

それなら寄り添いたかった。そう言いかけたがやめた。

「俺はあなたの事が好きでした。打ち明けるつもりだったその日に辞めると言われた。俺はすんなり手放した事を凄く後悔して探し求めて彷徨った」

 

 

ああ

だから直ぐに連絡しなかったんだ。久しぶりに会ったのにその相手を責める様な事を言ってしまう。これなら表面上の会話の方がましだったと、言った矢先に藤岡は後悔した。

一方の立花にもどうしても言えない、言いたくない事がある。

療養ではなく腫瘍を取る為の手術だった。胸の下から10センチほどの傷が残り、初めは赤く腫れていた。それがとてもコンプレックスだったが、最近になって傷の周りの凹凸もなくなり薄くなってきた。

「時間が必要だったの」

「療養の為ですか?パン屋さんにはいつから勤めてたんですか?」

「一年前よ。その後修造さんのお店に来たの。江川君が面接してくれたわ」

「そうだったんですね、長い事会わないうちに俺にもいろんな事がありました」

そう言いながら由梨の顔が浮かぶ。

俺と由梨は出会うべくして出会ったのかもしれない。

俺があの橋を歩いていたのも

泣いてる由梨を見つけたのも。

俺は彼女を傷つける奴が許せなかったんだ。

なんとか彼女を守らなくちゃ

困難な様に見えたけどあいつはあっさり手をついて謝った。

それ以降いつも俺のそばにいて

もう俺と由梨の間には絆ができている。

「あの子、河に飛び込もうか迷って泣いていたんです。悪いやつに根拠のない噂をばら撒かれて傷ついていた」

「あの時の俺は由梨を取り囲む様々な問題から俺が守らなくちゃと思った。そして由梨は俺の後を追ってきたんです。今は俺が守って貰ってる。そんな気がします」

「そうなのね」

聞いている立花の瞳にうっすらと涙が浮かんだ。

「私達は長い事合わなかった間にお互いに色々な事があったのよね」

「そうですね。俺、パン屋さんを沢山見たので勉強になりました。まだまだ続けて行こうと思います。立花さんも元気で、良い職人さんを目指して下さい。修造さんがオーナーの店ってちょっと羨ましいけど、パンロンドの親方もいい人なんでこれからも頑張れそうです」

そのあと暫く二人はお互いの顔を見つめあっていたが「元気で」藤岡はそう言って立ち上がった。

 

店から出て行った藤岡を見送り、一人座ったままで残りのコーヒーを飲みながらさっきの涙が溢れてくる。

それを店の外から覗き込んだり引っ込んだりする大坂の姿があった。

仕事の帰りに駅の近くで食事をして帰ろうと思って店内を覗いたら二人がいたという訳だった。

うわ

俺見ちゃった

立花さんが泣いてるとこ。

どうしよう。

なんだよあの超絶イケメンは。

何を話してたんだろう。

お似合いだったのに、超絶イケメンが帰って急に泣き出したじゃないか。

どうする?

声をかけるか、いやいやかけない方が良いのか。

なんで俺がドキドキしてるんだ。

そう思ってると立花が出てきた。

「あ」

「こ、こんばんは」

「こんばんは」見られたくない所を見られた感じで立花は足早に立ち去ろうとした。

今は人と話したい気分ではない。

「送って行きますよ」大坂が付いてくる。

「一人で帰れます」

「だって」

立花は大坂を無視して歩き出した。

だって心配なんですよ。

こんな時しっかりしてる先輩が儚くて頼りなげだとか言ったら『私の事バカにしてるの?』なんて言われるのかな?

 

 

「家は近いんですか?」

大坂は遠くから声をかけた。

立花はちょっと後ろを振り向いてまた前を向いた。

繁華街から住宅街に入る。

「あまり長い事後ろから付いて行ったらストーカーみたいだなと思ってはいます」

「そんな風には思ってないわよ」

「そりゃ良かった」

「私は大丈夫よ、大坂君」

「大丈夫は大丈夫じゃないサインじゃない?」

「そうね、私は嘘つきで本当の事を言わなかったばかりに今こうして一人で歩いてるの」

「さっきの超絶イケメンの事ですか?」

大坂は早く歩いて横に並んだ。

「私は自分の好きな人に心を許してなかった。だから最後にあんな表面上の挨拶をされたのよ」

涙が追いついて来たかの様に頬を伝った。

自分を納得させる為に言ってるんだと大坂には感じた。

傷ついてるんだな。

大人になる程複雑で素直になれない事ばかりだ。

何か言いたいが大坂の恋愛能力ではこれが限界だ。

二人はしばらく黙って歩いた。

8時頃か

開いている家の窓からテレビの音が聞こえた。

昼間は暑かったが、夜になり涼しい風が吹いて立花の前髪を揺らす。

まつ毛を潤す涙も少し乾いてくる。

街灯のオレンジ色の灯りが二人の影を作る。

 

 

「馬鹿なもうすぐ私の住んでるマンションなの。ここ、江川さんのマンションの近くなのよ。時々パン粉ちゃんも来てるみたい」

「へぇ、二人は付き合ってるんですか?」

「さあ、そこまで立ち入った質問をした事ないわ。男と女が一緒に歩いたからって別に付き合ってる訳じゃないんだし」

そう言って立花は数歩離れた。

「おやすみ大坂君」

「あ、はい。おやすみなさい。また明日」

立花は頷いて角を曲がって行った。

流石にマンションまで追いかけるのは気が引ける。

「ところでここどこなんだ。俺は地図アプリ見るのが苦手なんだよ」

スマホを見て駅の方に歩いてるのに駅から遠ざかる。

 

ーーーー

 

 

次の日のパンロンドでの作業中

「ねぇ大坂君」

「なんですか江川さん」

「昨日ベランダで洗濯物を干してたらね、スマホを見ながらウロウロしてる大坂君みたいな人がいたんだ」

「え」

それを聞いていた作業中の立花は大坂を見た。

あの後道に迷ったとは言いにくい。

「ちょっと散歩していまして」

「散歩には見えなかったな、必死な感じだったよね。ねぇ何してたの?」

立花の視線と江川の追求を避ける為に「あっもうパンが焼けますので」と丁度ブザーの鳴り出したオーブンの所に飛んで行った。

 

その夜

 

修造は大坂にヌンチャクを二つ持ってきて渡した。

二人駐車場で稽古をする。

「猫足立ちでヌンチャクの構えをこう持つと敵は次に上から攻撃してくるか下から攻撃してくるかわからない」

 

 

「こうですか」

「そうそう」

手取り足取り教えてもらいながら聞いた。

「あの、修造さん」

「ん?」

「リーブロって社内恋愛禁止なんですか?」と聞いたが、別にまだ『恋愛』にもなっていないのにこんな質問自体厚かましい。

修造はニタっと笑った。

「社内恋愛?フフフフフフ」

修造は勿論そんな事は言えた義理ではない。

18の頃、パンロンドで初めて自分の横を通った瞬間から律子しか見ていなかったので。

「勧めはしないけど控えめにね、ぐらいしか言えないな。誰かと付き合ってるの?」

「いえ全然、森田が言うには厳しい店もあるらしくて」

「確かに周りの人は気を使う事もあるかもね」

「そうですよね」 

「俺もそうだったな、律子に一目惚れしたんだ。いいよ結婚は、二つ年上の賢い妻、可愛い子供」聞きもしてないのに急に修造は惚気出した。

「そうだ大坂、俺とうとう今度の祝日娘と試合に出るんだ。序盤でヌンチャク演武、それと個人の型に出る。休んでごめんね」

「いえ、頑張って下さい」

 

ーーーー

 

空手の試合がある日は火曜日だった。

試合には田所家とパンロンドが休みなので由梨達四人組が応援に来ていた。

 

 

「頑張って〜緑、修造ーっ」大地を抱っこして律子は応援を続けていた。

「修造さーんファイトーっ」

杉本と風花、由梨も声を張り上げた。

藤岡は黙ったままみんなの様子を動画に撮っていた。

2階席から1階の会場を見ている。

その直ぐ後ろで黒い帽子を目深に被った女がひっそりと試合の様子をじっと見ていた。

いや、詳しくはオペラグラスで修造だけを見ていた。

そんな事は全く知らない修造と緑は試合で勝ち進み、次が親子演武の決勝戦だった。

「次の親子は息がピッタリ手強そうだな」修造が向かいのコーナーで試合開始の合図を待っている親子を観察した。修造親子と同じ年頃だ。勝ち上がって来るだけあって動きも正確で所作が決まってる。「お父さん、私、足が震えそう。緊張してきちゃった」

流石に決勝戦ともなるとピリッとする。

修造はしゃがんで緑の目線で話した。

 

 

「緑、自分を信じて、今まで練習してきた1番の動きを思い出せば良いよ。それを心の中に留めておいて身体をいつもの様に動かせば大丈夫。一緒に楽しもう。お父さんは緑と空手ができて嬉しいよ」

「うん、お父さん」

二人はうふふと笑い合った。

「そうだ、勝つおまじないを教えてあげよう。名前を呼ばれたら背筋を伸ばして片手をまっすぐ上げて大きな声で返事するんだ。そうするとその勢いで綺麗な動きができるからね」

すると自分達の名前が呼ばれた。

二人は同時に手を高く上げて大きな声で「はい」と言って審判の前に立った。

父親として、テンポが狂わない様緑をリードして、同じ動きでヌンチャク演武を終えた。

 

15時頃

全ての試合が終わり、大会の成績発表が行われた。

小さい子供達から順に優勝、準優勝などのカップや盾が配られる。

緑と修造も親子ヌンチャクの試合で優勝して大きなカップとメダルを貰った。

 

 

応援団から盛大な拍手が送られた。

「大地、オトータンは個人型でも優勝したのよ。凄いね〜」

律子は一階から手を振る二人に手を振りかえした。

大地が眠ってしまったので、田所家四人は車で先に帰る事になった。

「みんな今日は応援ありがとう」

「修造さんカッコよかったっす」

「気をつけて帰って下さい」

修造を見送り四人は帰り道を歩き出したが、風花が気を使って言った「ねぇ龍樹、私達だけで買い物に行かない?」

「え?何を買うの?」

「それは後で考えるからぁ、じゃあ由梨ちゃん達、またお店でね」

風花は由梨達に手を振って、杉本を引っ張って駅に向かった。

由梨は何度も気を遣ってくれる風花に心の中で感謝の手を合わせ、二人を見送ってから藤岡と歩き出した。

二人ともしばらく話さずに黙って歩いていたが、由梨が「あの、私勝手に立花さんに会いに行ってすみませんでした」と切り出した。

「うん、その後こちらからリーブロに連絡して会って来たよ。話してる間に自分の気持ちを確かめられたかな」

「え」

それは立花への気持ちを確認したのか。

それともどっちの意味なのか。

「あの、以前」

「うん」

「自分が辛かった事や今の自分の気持ちもちゃんと言えるよ」って藤岡さんは私に言ってくれました。もし辛かったらそう言って欲しい。気持ちをちゃんと言ってください。どんな言葉でも良い。真実が知りたいです」

「俺の実家の庭には満天星躑躅(どうだんつつじ)があるんだ」

「どうだんつつじ?」

突然花の話をし始めた藤岡の表情をじっと見ていた。

「そう、初夏に白い花が沢山咲き誇って揺れているが、秋になると葉が燃え盛る様に真っ赤になる」

 

 

由梨は満点星躑躅の様だ。たおやかに揺れていると思えば情熱的な一面もある。

「この木が好きでね、『私の思いを受けて』と言う花言葉もある。秋になると真っ赤になるから満点星紅葉(どうだんもみじ)とも呼ばれている」

そう言ったあと、由梨を見て微笑んだ。

「由梨ありがとう。心配かけたけど、もう終わった事だったんだ。探し求めていた人に会うのが怖かった。そして立花さんに結果的に嫌な思いをさせてしまった」

 

 

だけどその後、心の中にできていた固い砂の塊が時間が経つにつれて段々パラパラと解れて無くなっていった。

あれ以降

俺の中で

何かが変わった

新しい俺に

小麦と水が出会って自己融解を起こす。

由梨と俺の心が溶け合って

「由梨、俺は行きたいパン屋さんがあるんだ。久しぶりに動画を撮りに行くよ。内容も少しリニューアルしようと思ってる。前よりパンの事を詳しく説明したりしょうかな」

「はい」

「リーベンアンドブロートと少し雰囲気が似ててね。テラスがあってそこから湖が見えるんだ。確かそこにもあったんだよ満天星躑躅が。見せてあげたいけど今は丁度葉が青々してるだけだな」藤岡は笑って言った。

「私も行きます」

「遠いよ少し」

「大丈夫です」

「わかった。じゃあ朝から行こうか」

「はい」

 

ーーーー

 

早朝

一車両だけの電車は長閑な風景の中を走っていく。車内には二人と、後は何人かの乗客だけだった。

 

 

 

時々二人で何か話して

また沈黙になるけれど

心が通い合っている気がする。

駅から動画を撮って歩きながら

道標や景色を撮る。

湖が見えて来た。

その向こうにパン屋がある。

「素敵」

「雰囲気良いよね湖のほとりのパン屋」

いつもの様に表から外観を撮った後、許可を取ってから買ったパンをテラスで藤岡が撮影して、由梨はパンの角度や暗い時はライトを当てたり光彩を考えたりした。

撮影が終わった後、テラスから綺麗な水面が見える。キラキラと輝く水面をベンチに座って2人で見ていた。

「見飽きないですね、湖に空や向こうの景色が映ってる」

「由梨」

「はい」

「あれが満点星躑躅なんだ」指差した先を見た。

由梨は近くに寄って見てみた。

以前藤岡の言った通り、この季節には青々と葉が茂っている。

これがそうだと言われないと分からない。

「この葉が秋になると真っ赤になるんだよ。そして初夏には小さな可愛い花が沢山咲くんだ」

由梨が葉の先が少し赤くなっていている、もうすぐ秋なんだわと近寄った時、足元の段差で体が傾いた。

「危ない」

藤岡は由梨の手を取って体勢を整え手を繋いだまま歩き出した。

由梨は驚いたが、藤岡に手を引かれて、そのまま二人で歩き出した。

湖面は静かで鴨が数羽泳いでいる。

二人は暫くそれを見ながら、日差しを避けて木陰に移動した。

「俺には本当に大切なものができたんだ。いつかオートリーズについて説明したね」

「はい。水と小麦が出会って初めてグルテンができる話」

「小麦粉に水を加えると、グルテニンとグリアジンが絡み合ってグルテンができる」

「当たり前の事の様だけど、お互いが必要な素敵な出来事です」

藤岡は急に笑い出した。

その笑顔は最近の苦虫を噛み潰したような表情とは違い、すっきりとしている。

「ごめん、何の話をしてるんだ俺は。俺には由梨が必要だって言いたかったんだよ」

「え」

「俺は由梨が好きなんだ」

藤岡は由梨の肩に手を置いて顔を覗き込んだ。その瞳の中には迷いが消えている様に見える。

私はいつの間にか静かに愛されていたんだわ。

由梨は微笑んでまた二人で歩き出した。

 

 

愛したいとか愛されたいとか古いですか?

 

二人で一緒にいるのなら

お互いに守ったり守られたりしたい。

 

一緒に歩きたい。

 

大切な人と一緒に。

 

 

満点星揺れて おわり

 

 

パン屋日和に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2023年06月05日(月)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ ロストポジション  トゲトゲする空間

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ ロストポジション  トゲトゲする空間

このお話は全てフィクションです。実際の人物や団体とは一切関係ありません。

 

主な登場人物

 

修造と江川は無事にリーベンアンドブロートをオープンさせた。

 

最寄りの笹目駅からは少し離れているが近くにバス停もあるし、車は駐車しやすい場所にある。

連日の大賑わいに修造と江川、そしてパン職人たちは皆自分のポジションで頑張っていた。

 

修造は2階にある事務所に注文書を取りに行く為に階段を上がろうとした時、新入社員の平城山妙湖(ならやまみょうこ)に呼び止められた。

「修造シェフ」

「平城山さん、仕事はどう?もう慣れた?」修造は振り返って穏やかに声をかけた。

「私辞めます。明日から来ません」

「えっ辞める?ちょっと待ってよ、この間はあんなに楽しそうに仕事してたじゃないか」

修造は驚いて言った「それにまだ入って8日でしょう?契約書には辞める3ヶ月前に言いますって書いてあるじゃないか。それに君はここの正社員でしょう?」

「はい」

「急に抜けたらみんなに迷惑がかかるよ?」

平城山は黙って下を向いている。

「何が原因?朝早い仕事だから?」

「いえ、そんなんじゃないです」

「家から遠いから?」

「いえ」

「人間関係で何かあったの?」

「いいえ」

なかなかはっきりと言わないが順に聞いて行くとついに言い出した

「ここに来る前転職サイトを色々見て」

「うん?」

「候補が二つあってどちらにするか決めかねたけど世界一のシェフがいると聞いてここにしました」

「うん」修造はなんというのか全く理解できない世界を知りたい様な感じで聞いていた。

「ここは忙しすぎます。もう一軒の方がきっとここよりマシだわ」

「まだ開店したばかりだからね。皆慣れていないし、もう少ししたら落ち着いてペースを掴めると思うよ」

「面倒な仕事を押し付けられてその後延々とそれをやらされるなんてごめんだわ」

「面倒?押し付ける?確かに初めは手が掛かる事もあるかもしれないけど慣れてきたらそうは思わないんじゃないかな」

「私辞めるしもう関係ありません!しつこく聞くなんてパワハラだわ!私もう一軒の方のパン屋に行きます」

 

キレた感じで言われ、次の日から本当に来なかった。

修造は一旦平城山の為に出した社会保険や労働保険、住民税などの届け出を今度は異動届として出した。

「こういう時は日割り計算なんだな」給料計算をして、その後欠員補充の為に求人広告雑誌掲載の依頼を担当の人にメールしながら頭をよぎる。

 

きっと他のパン屋の面接を受けるんだろう。

サインをしようがハンコを押そうが知ったこっちゃないんだな。

「規則とか罰則なんて辞めたくない者の為のものなんだ」

修造は初めてその事を知った。

 

一方その頃

江川は工房と裏庭の間にある倉庫で納品された品物をチェックしていた。今から使う物も集めて工房に持っていく。

「これとこれと、、あれ?」

自分が思ってたよりも減りの早いものがある。

どういう事だろう?

誰かが使い過ぎてるのかな?

 

 

工房に戻ってみんなの動きをよーく見てみた。

和鍵希良梨(わかぎきらり)がクロックムッシュの上にこんもりとクリームを塗っている。

「ねぇ、そんなに塗ったら多すぎるよ。決められた量があるんだし。ねっ」

「私ちゃんとやってます」

明らかに塗りすぎなのに、和鍵は平然と言ってきた。

「えっ!でも、、」

和鍵は江川に言われた事を無かったことにしたかの様に無視してまた作業を続けた。仕方ないので江川は和鍵の作ったクロックムッシュを量りで計って見せた。

「ほらね、30gも多いよ。1個や2個と違って沢山作ってるんだから途轍もない量になっていくんだ」

和鍵はムッとして上に塗ったホワイトソースをスパチュラでこそげ取った。

 

 

「あっ」

「これで良いんでしょう?」

「何その態度」

江川はびっくりして言った。

和鍵は顔を近づけて小声で言った「偉そうに、私達とそんなに年も変わらないのに上司面して」

「そんなつもりじゃないよ」

「江川さんは良いですよね。修造さんから特別に可愛がられて」和鍵は首をクネっと曲げながら言った。遠くから見てると可愛いポーズで話してるように見える。

「特別じゃないよ。なんでそうなるの?話をすり替えないで」

「でもみんなそう思ってますよ。オーナーに言われるならともかく、江川さんにそんな事言われたくないわ」和鍵は顔を近づけて小声で言った。

「とにかくちゃんとしてよね」

声を震わせながらそう言って、江川は足早に事務所に戻ってきた。

 

「みんなそう思ってるのかな」ソファに座ってドアの方を見た。

工房に戻りにくい。

言いたい事を言われて情けなくて涙が出る。

 

 

郵便局に行っていた修造が帰ってきた。

 

「どうした江川!何かあったのか?」
座って泣いている江川に驚いて肩に手を置き顔を覗き込んだ。

「なんでもありません」

「な訳ないだろう?言えよちゃんと」

心配が先立って詰め寄る感じになった。

実は材料の使いすぎで和鍵さんと揉めちゃって」

修造は江川を事務所に残して1階に降り、工房に入ろうとすると中から立花杏香が出てきた。

「なあ、さっき揉め事があった?」修造は小声で聞いた。

「はい実は、、」

そばで見ていた立花が和鍵の態度については教えてくれたが小声での会話まではわからないと言う。

「えーそれは傷つくなあ。悪いけど和鍵さん呼んできてくれる?」

立花に呼ばれて廊下に和鍵が出てきた。

「さっき江川に材料の量の事で注意されたんだろ?どんな話だったの?」

「はい、、すみません」

和鍵は修造には素直に謝った。

「私ちょっと塗り過ぎちゃったんです。沢山塗った方がお客様が喜ぶと思って。そしたら江川さんが計って多いって、、」

と言って泣き出した。

泣くところなのか?

「わかったよごめんごめん。江川も一生懸命なんだよ。今度からお互い気をつけようね」

工房に戻った和鍵の背中を見送り事務所に戻る。

別に江川が悪いわけじゃないと思いつつも『お互い』と言ってしまったと後悔する。

 

「江川、気分はどう?少し落ち着いた?」と聞いた。

「はい、すみませんでした。僕和鍵さんになんて言ったらいいのかわからなくなって。でももう大丈夫です」

確かにさっきよりは落ち着いて見える「みんな忙しくてイライラしてるのかもね。俺も工房に行くけど一緒に戻れる?」

「はい」

工房に戻って江川と作業しながら皆の様子を観察した。

江川は孤立しているのか?

立花他数名はそんな事は無いだろうが忙しくてそれどころじゃない様だし、和鍵は登野里緒、平城山と派閥みたいな物を作りつつあったが平城山はさっさと辞めてしまった。

和鍵は誰かが注意されるとすかさずそこに行き、不満などを聞いて味方になり、店や江川が悪いと吹き込んでおかしな信頼関係を築いてる様だが、ハッキリとは聞こえてこないのがやっかいだ。

修造は兎に角やる事が多くて事務所にいて長いこと用事をしている時もあるし。そんな時江川は冷たくされる様だ。

 

終業後

家に帰って和鍵は母親と話していた。

それは自分の言った言葉以外の見たままの内容だった。

江川さんってNo.2がいて自分には厳しく、計りを持ってきて自分の仕事をチェックした事。

オーナーが来て色々質問してきた事。

その後オーナーが江川と入ってきてジロジロ仕事の様子を観察していた事など。

「鬱陶しいわ」

「可哀想な季良梨、あんたは悪くないんでしょう?」

「うーん」

「だったら毅然とした態度をしてれば良いのよ。そんなおかしなオーナーや従業員に負けないで。また何かあったら教えてね」

「うん」

 

 

ーーーー

 

何日か後

修造は店内で袋入りの焼き菓子やドリップバッグが消える事が度々あるとカフェ担当の岡田克美と中谷麻友から報告を受けた。

「中谷さん、どのぐらいの頻度で無くなるの?」

「まだそれはわからないんですけど、私が担当をしていて、売れてないのに無くなってる物があるんです。気をつけて見てる様にします」

岡田が納品書を持って説明してきた「数量で言えば、例えば初日からこの商品は60個あったんです。レジを見てみるとこの商品は36個売れてる、それなのに実際の残数は24無いといけないのに18個しか無い」

 

 

「うわ」修造は驚くと共に岡田が頼りになると感動した。

「ほかの商品10種類も足りない分がこれです。袋入りだからわかりやすいですが」

「中谷さん、岡田君ありがとう。また何かあったら教えて」修造は調査表を受け取って店の様子をよく見てみた。

うーん。

レジでは客が並び安芸川と姉岡が忙しそうにしている。

修造はパン箱をもって「いらっしゃいませ」と周辺の客に挨拶してトレーに焼き立てパンの補充をしながら「こういうのは持ち去りようがないもんな」と呟いた。

そのあと工房で仕事しながら様子を見たが江川と和鍵は距離をとって仕事している。

「うーん、各方面に目配りしないとな」

 

ーーーー

 

さて

また新しいメンバーがやってきた。

「白栂雅子(しろつがまさこ)と申します。よろしくお願いします」皆に爽やかに挨拶した。

白栂は和鍵と同じ年齢ですぐに打ち解けた様だ。

上手くいってくれるといいけど。修造はまだ平城山ショックから立ち直っていなかったのでちょっと祈るような気持ちだった。

「明るそうな人で良かった」

 

ところが

 

 

白栂は何度も遅刻してくる。

反省はしてる様だがしばらくするとまた同じ様な遅刻。

そして修造を悩ませたのが白栂とのやり取りだった。

 

 

 

今日は人がいなくて「あ、いいよその仕事は、自分の仕事をしていて」と言うと、もうこれはしなくていいんだとかもう次は要らないのかなと思う様だ。こちらは全体を見て手が足りないかどうかを見てるのだが白栂は自分と自分の仕事だけを見てるからそうなるんだろう。なので次に今日は人がいてゆったりだから、これなら白栂にもできるだろうとやらせると、こないだはやらなくっていいって言ったのになんで?となる。理解できない様だ。

おまけに甘くしてるとそれが当たり前になっちゃうし、厳しく言うとパワハラになっちゃうし。

また和鍵が白栂を慰めてる。これが店の為を思ってやってるならありがたい存在なのに店が悪いという展開になって行く。

最近では和鍵と白栂は江川を無視して、2人のやりたい様にやってる様だ。

ある日

江川が板に※パンマットを乗せてそこに成形したバゲットを波板状に並べ、その板ごと持って奥のホイロに移動しようとした。

「あ」

中央のテーブルの右には最近は仲直りしてうまくやっている西森と大坂が板の上の生地を※スリップピールに並べていて通れない。左は和鍵と白栂がテーブルの前で仕事している。江川は和鍵達の後ろを通るしかなく「ちょっとごめんね」と言って通ろうとした。狭い通路なので和鍵と白栂はテーブルに寄って後ろをあけないといけない。江川が通り過ぎようとしたその瞬間白栂が後ろに下がった。

「あっ」

「いま私のお尻を触りましたよね」

「触ってないよ!ちょっと当たったかもしれないけど」

「ちょっとって何ですか?触った事に変わりないでしょう」

和鍵も白栂に加勢した「セクハラだわ」

「ぼくそんな事してないよ」

西森と大坂はその瞬間は見ていなかったが「そんなわけないだろう」「絶対触ってないと、、、思うけどな」と冷静に言っている。

立花は「その場所は狭い所なんだから今度からあなたも当たらないようにしなさいよ」と注意してきたので白栂は「セクハラ!」と捨てゼリフを江川に言ってまた作業に戻った。

 

 

江川は困って事務所にいた修造に相談した。

「僕触ってません」

「お前がそんな奴じゃないってことは俺が一番わかってるよ」

「僕、どうしましょう。居辛いです」

「俺が話してみるから戻っていいよ」

「はい」江川は首をうなだれて戻っていった。

 

修造は白栂を事務所に呼んだ。

階段を上り、入って来た白栂は不満そうな顔をしている。

「白栂さん、江川がそのう白栂さんのあのう、身体に触れたって事らしいけど誤解だと思うんだよ」

「私が嘘ついてるっていうんですか?」

「嘘とは言ってないよ。当たったんだろうけどセクハラめいた事ではないというか」

「ひどい!泣き寝入りしろっていうんですか?修造シェフはいつも私にばっかり注意してますよね。私の事が嫌いなんですか?」

「ばっかりって事は無いよ。仕事上のやりとりなんだし。嫌いとかそういう事じゃないよ」

「もういいです!私辞めます。和鍵さんも修造さんはえこひいきばかりするって言っていました」

「誤解を解きたいだけなのに辞めるだって?なんでそうなるんだ」

「セクハラを庇うからです」白栂はそう言いながら出て生き様思い切りバタンとドアを閉めた。

これ以上言っても無駄なのか、平城山の事を思い出して追いかけていくのは止める。

 

修造はガクっとソファに座って首をうなだれながら考えた。

 

経営って大変だな。パン作りの事だけを考えりゃ良いってもんじゃないんだ。

 

世界大会での燃えるような気持ちを思い出す。

あー

あの時は良かったなあ。

親方夫妻

大木シェフ

鳥井シェフ

那須田シェフ

パンの高みだけを追いかけて夢中になって

今は江川がセクハラの疑いをかけられてるなんて、しかも自分の所の従業員に。

修造はソファに座って両手で顔を擦りながら考えた。

こんな時親方ならどうするんだろう。

どっしり構えて動じずにみんなの事を見守っていくんだろうな。

なんだかんだいつも世話になってた奥さん、ちょこまかと動いてみんなを束ねてた。チャキチャキみんなを引っ張っていってたな。

懐かしい

それに

杉本はやりやすかったよなあ、殴り合っても次の瞬間には心が通じ合ってたし。

あー会いたいなあ皆に。

 

 

修造は久しぶりにパンロンドの親方の所を訪れた。

杉本が飛んできた「あっ修造さん!今日は用があって来たんですか?」

修造は杉本の肩を抱き「杉本~」と笑顔を見せて杉本を怖がらせた「ひっ」

「よう修造!どうだい新しい店は」

「親方、それがあのう。思ってたよりも人の問題が大変で」

「まあ肩の力を抜けよ修造」

親方はうーんと昔を思い出しながら言った。

 

 

「俺も始めはそんな感じだったな。遅刻ばっかしてくるやつを叱りつけて首にして、そいつが逆襲に来てお前に迷惑かけた事もあったな。 色々あったが佐久山と広巻みたいに気の合う奴と出会ってあまりでかい不満もなく続けられたよ。若い時は佐久山はギャンブルばっかりしてて、広巻はのんべぇだった。いつ飛んじまうかわからないなあと思ってたらお前が入ってきて、途中で中抜けしてドイツに行くって言った時から2人ともちょっと表情が変わったんだよ。ヨレヨレの格好してたのも治ったな。仕事の事で更に高みを目指すなんて奴はあいつらの人生で初めて出会ったんだろうよ。戻って来て世界大会に出て、、、それを見てるうちに段々仕事に前向きになって来て、飲んだり打ったりするのも減ってきた」

そしてうんうんとうなづきながら続けた「俺にもあいつらにも良い刺激になったんだよ。江川も続けてればまた気の合う奴が巡ってくるって。仕事のリズムを掴めない奴には一緒にやって褒めて様子を見てやるしかないのさ。そしたら自分で出来るようになるってもんだ。大変と思うけどな」

「はい」

修造は帰り道歩きながら考えた。

そうか

俺が親方夫妻みたいになって江川と一緒に色々とやりかたを考えてやらなきゃいけないんだ。

俺も変わらないと。

江川が育つまで俺が奥さんと親方の2人分をやらなきゃ。

修造は事務の時間を夜に回して職人達と一緒に仕事をしてやって出来るようになるまで面倒を見た。出来るようになると「そうそう!その感じ」と励ましてやる気の出る様に努力した。

疲れてソファに伸びてる修造をドアの隙間から見た立花が和鍵に言った。

「このままで良いのかな。私はここにいて少しでも修造さんの技術を学びたい。それが自分の為になるのよ」

次の日和鍵は修造の手元をよく見ていた。それを見た立花が「和鍵さん、やる気出てきたんじゃないですか?」と言った。その言葉を聞いて修造はほっとした。

 

「修造さん」

振り向くと岡田が立っていた。

「閉店後話があります」

こんな言い方をされた時はろくな事じゃない。

修造はそういう事を察する事が出来る様になってきた。

岡田も辞めるのかな?そう思いながら閉店後に待っていた岡田の所に行く。そこに中谷もいた。

岡田は何枚かA4の紙を渡してきた。

「以前言っていた商品がなくなる件ですが、状態は変わっていません」

「うわ、トータルすると相当な金額だな。こんなにどうするんだろう」

「それで」岡田と中谷は顔を見合わせて頷いて「どうもお客さんじゃないんじゃないのかと」と言った。「レジ閉め後に数を数えて、試しに開店前に数えたら前夜と数が違うんです」

「えっ、てことは」修造は全員の顔を順に思い出していった。

「それで、店内に防犯カメラを付けてはいかがかと」

「わかったよ、ここまで調べてくれるなんてほんとありがとうな」

修造は岡田と中谷に感謝して、江川と防犯カメラを付ける位置を考えた。

「こっそり隠すんですか?」

「いいや、堂々とでいいだろ」

「そうですね」

「じゃあ2つあそことあそこに付けよう!明日業者の人に頼んでおくよ」

「はい」

「ところで江川、白栂さんの件だけど」

そう言うと江川の表情が一変した。

「あ、違うんだ。周りのみんなはあれは誤解だって思ってるって言いたかったんだよ」

「僕、あれから本当に気をつけていて、大声で通るよって言って間を空けて貰ってから通ってます」

「うん、俺もそうするよ、なんせ工房が狭いもんな」

「はい」

 

ーーーー

 

 

「あ、江川職人」

「パン粉ちゃんおまたせ~」

今日は江川と小手川パン粉は駅で待ち合わせてパン屋さん巡りに行く日だ。

2人は電車に乗り一駅ずつ降りてはその駅の近くの名物パン屋を訪れた。

何軒か回った後ブーランジェリーシノミヤに入り、長く続くショーケースに並ぶパンを対面で立っている販売員に指差してトレーに乗せて貰う。

「江川職人、買いすぎじゃない?そんなに食べれるの?」パン粉は江川のトレーを見て驚いて言った。すでに買い物したパン屋の袋が3袋もあるからだ。

「だって美味しそうなパンばっかりでどれも味見したいんだもん」

「その気持ち痛いほどわかるけど」2人は笑いあってレジで今食べるパンを選んでドリンクを注文した。

 

 

席に座ると今日行ったパン屋のパンをチェックしたりトレーのパンを味見したりする。

「ここのバゲットはもち麦を使ってるんだね」

「もっちり弾力があるね」

「パン粉ちゃん、もち麦はアミロペクチンを多く含んでいてそこがうるち米と違う所なんだ。粘度が高くて消化しにくいから腹持ちがいいんだって」

「さすが江川職人ものしり~」

「修造さんの受け売りだよ」江川はちょっと顔が赤くなった。

「江川職人はパン職人になって何年になるの?」

「4年だよ。もうすぐ5年、その間色んな事があったな。僕ずっと修造さんの背中を追いかけてたんだ」

「ザ・師弟愛」

「修造さんは強いんだ、なんでも乗り越えていける。そんな時修造さんの背中が光って見えるんだ」

「うん、なんか分かる気がする。輝いてるよね修造シェフ」

「うん。僕いつかあんな風になれるかな」

「江川職人は力(リキ)あるんじゃない?パンリキ」

「パンリキ?」

「そうパンリキ!」

2人はテーブルを挟んで向かい合い顔を近づけて笑いあった。

 

ーーーー

 

次の日

パン粉とパン屋巡りに出かけてリフレッシュした江川が楽しそうにやって来た。

それを見た和鍵がイライラした。

修造にパン屋の説明をしながら楽しそうに仕込みしている江川を見ていた和鍵は『辛く当たってるのにまた復活したわ。目障りだからここからいなくなればいいのに』と思っていた。

なぜこんなに江川が嫌いなのか自分でも不思議だ。

 

修造は※サワードゥの種継ぎをしながら江川に話しかけた「あのさあ江川、言いにくいんだけど大木シェフからゴルフの誘いがあって今度行ってくるんだけど、いいかな」

「はい、僕もおでかけして気分転換できたんで修造さんも行ってきて下さい」

「大丈夫かな」

「はい、僕いつもより早く来ます」

修造が心配していたのは江川と和鍵の事だったんだが。

心配しつつも修造は粗目ゴルフ場に出かけた。

道具は全て大木が貸してくれる。

修造が来たので大木は嬉しそうにしていた「ルール知ってんのか?」

「いえ、あまり」

「そうか、じゃあ今日は練習ということで」

そう言って大木はティーインググラウンドに立ちドライバーを構え、力を入れずにクラブを振りぬいた。スーっと伸びたボールは打ち上げのフエァウエー中央に落ちた。

「無難だな」鳥井に言われたが「これがベテランってもんだ。さあ、次修造!俺みたいに打てよ」

「はい」よし!要するにあのグリーン目掛けて打ちゃあいいんだな!修造は思い切り素振りをした。ティーアップして出だしから怪力でドカーンと打ち飛ばし、ボールは右へスライスしてグーンと伸び隣の5番ホールへ飛んで行く。

 

 

「うわ!」

その途端キャディの声が「ファーーーーッ」と響いた。

 

ーーーー

 

一方リーベンアンドブロートの工房では修造が抜けてる分皆忙しく働いていた。

江川は修造の分も仕事しようと張り切っていて、仕込み成形仕込み成形を繰り返していた。

ふと見ると洗い物が随分溜まっている。白栂が辞めた後、和鍵は修造の前では率先して洗い物をしてたのに今日は全然やらない、気になるけど今は自分も手が回らない。

「あのさ和鍵さん、ちょっとあれ片付けてくれない?今手が空いてるでしょう?そろそろ溢れて落ちそうなんだ、ねっ」

和鍵は聞こえないふりをした。

「和鍵さん」

「、、、」

「和鍵さん!今聞こえないふりしたよね?」

「なんの事ですか?今忙しいんです」

「無視しないで、何故僕に嫌な態度を取るの?」和鍵に言った言葉を和鍵が返してきた。

「無視しないで、何故僕に嫌な態度を取るの?」

「それ僕の真似だよね?やめて」江川は苛立ちを抑えながら言ったが突然脳内で何かが切れた。

「もういいよ」

江川は和鍵にはそれ以上言わずにもっと早く仕事を終わらせて片付けにかかった。

 

そして誰とも話さずに黙って帰った。

 

 

夕方

ゴルフで散々だった修造ががっくりして戻って来た。

工房には江川の姿はなく、他の者が明日の準備をしていた。

「あれ?江川は?」

和鍵が答えた「江川さんなら誰にも挨拶なしで帰っちゃいました」

「えっ、そんな奴じゃないのになあ」

「そうですかね」呆れた様に言う和鍵の言葉に不安がよぎる。

廊下で何度も電話をかけた「でない」

修造は裏口の方を見ながら後悔した。

今日呑気にゴルフに行くべきじゃなかった。

 

 

江川は最近リーブロのある笹目駅の近くに引っ越してきた。

自分のマンションに向かい自転車を漕ぎながら涙が止まらない。

 

あの時と同じだ。

高校の時と。

僕だけみんなと違うのをみんな意識してる、中には和鍵さんみたいに僕の話し方を真似する失礼な子もいた。

僕は学校に行くのが嫌になって、パンロンドに逃げたんだ。でもパンロンドでは修造さんやみんなが僕を普通に受け入れてくれていた。自然で何も聞かない、だからって関心が無いわけじゃない。僕はやっととても自由な気持ちになれたのに。

 

 

江川はその次の日から店に来なくなった。

 

ーーーー

 

「立花さん、江川は今日も休みなの?」

「はい修造さん、体調悪いと連絡がありました」

「全く、こんなに忙しいのに何日も休まれたら困るわ」そばで作業をしていた和鍵がすかさず言った。

「俺が江川の代わりに入るからね」

「はい、お願いします。助かります」

それを聞いていた立花が、和鍵を冷静な目で見ていた「修造さんの前でも江川さんに対する態度を見せたら?」

「何言ってるの?立花さんが変な事言い出しました」

和鍵は修造に困った顔を見せた。

修造は違和感のある和鍵の態度を見て江川に本当の事を聞かなくちゃと考えていた

 

 

その夜

雨が激しく降っていた。

修造は江川の住んでいるバンブーグラスマンションを訪ねた。

「あ、修造さん。すみません休んで」

「江川、大丈夫か?痩せたんじゃない?何かあったんだろ?俺にも教えてくれよ」

江川は全て言いたい気持ちをグッと抑えた。今まで言わなかった事を改めて修造に言うのは恥ずかしくて耐えられない。「なんでもありません」と言う言葉と裏腹に涙が止まらない。

 

 

「なあ、頼むよ、江川だけが辛いのは俺も辛いんだ」

「僕、みんなと違うんです」

「何が」

「話し方や服装とか」

「俺だって違うぞ、ダサいし話も苦手だし、それに比べて江川はオシャレで明るいだろ?」

その時初めて修造が江川の事をそんな風に思ってた事に気がついた

「仕事がキツイのか?それとも和鍵さんが原因?」

修造は今日職場で見た事を話した。

「僕、和鍵さんに言われて、昔のことを思い出して身体が動かなくなったんです」

「昔?」

「高校の時の事です」

「不登校の事?」

「はい、また和鍵さんに会うのは怖いです。しばらく休ませて下さい」

「わかったよ江川。仕事のことは心配するな。疲れが溜まっていたせいもあるんだろう、ゆっくり休めよ」

「すみません」

帰り際、冷たい雨の中。

あんな江川初めて見たな。

いつも前向きな奴なのに。

「和鍵さんの件なんとかしなくちゃ」と呟く。

 

修造は大木シェフを尋ねた。

「よう、こないだは散々だったが練習したらちょっとは上手くなるって」大木は全てスライスする修造のゴルフを思い出して言った。

「俺、ゴルフは向いてなくて」

「クラブフェースが開いてるんだよ、肩の位置とグリップを直しゃいいんだよ」それは何度も言われたが治る気がしない。

「ご相談があって」

「なんだよ」

「シェフは大勢の職人を束ねていますが、どうやって軌道に乗せてるんですか」

「軌道」と言って大木はそばにあったケーキ用の回転台に試し焼きで余っていたクッキーを等間隔に乗せた。

そしてそれを太い指で素早く回すとクッキーは振り落とされて数個残った。

「早く回しすぎるとポロポロ落ちる、ま、丁度良く回す事だな」

「はあ」抽象的な事を言い出した。

「分からんでもないだろ?」

「はい、なんとなく」

「何を困ってる?やってみると大変だろ?」

図星で何とも言い難い。

「あちこちボロボロです」

「お前は全体を見なくちゃならんからな、一つのことに執心すると他が疎かになる。全体を満遍なく見るんだ」

「江川がいじめにあってる様なんです、中々俺の前ではどちらの様子もハッキリしなくて」

「お前な、いつまでも江川のおもりをするつもりか?もっとしっかりした奴だと思うぞ。あいつに自分で何とかさせるんだ。そんなことであいつを独り立ちさせようったって無理だろ」

「はい」

大木にはっきりと言われて今後の課題を言われた気がする。それは自分自身への課題でもあった。

 

ーーーー

 

さて、修造にはもう一つ困っている事があった。

レジや品出しをしている姉岡志津香は初めのうち真面目にやっていたが、最近は職場に慣れて本性が露わになって来たのか中々に反抗的だ。接客中パンの事で質問されてわからないから聞きにきたので、それなら説明しようとお客さんの所に行くと別に来なくてよかったのにとこちらを向いて煩そうにして、修造を不思議がらせた。

また、注文を受けた際には店と工場の両方に注文書を貼らないといけない。さっき注文を受ける所を見かけたのにいつまでも来ないから注文書持ってきてというとしばらくして持ってきたのは良いが何も言わずに無言で紙を貼り付けていく。

その他お店の事を仕切り始めてこちらに聞かずに勝手に行動する様になってきた。

なんなんだ姉岡さんって。

修造は工房からしばらく姉岡をマークすることにした。

一つ一つ直していかないとな。

 

その日の夕方

 

「修造さん、工事の人が来ました」岡田に呼ばれて防犯カメラを取り付けに来た業者にこことここにお願いしますと言う。「クラウド型にしたんですね」「うん、どこにいても見れるからね」

しばらくして工事が終わり業者に画面の角度を見る様に頼まれたので「もう少しこちら」とか言っていると、レジの姉岡、安芸川も画面をのぞきに来た。

 

 

「こんな風に映ってるんですね」

「結構映像がはっきりしてますね」

「うん」

「音は出ないんですか?」

「聞こえないな」

「ふーん」姉岡がそういった。

 

 

そんな時黒い噂と言うか、変なものを中谷が見せてきた。

 

「これ見て下さい」中谷のスマートフォンを覗いて店の評価が載ってるサイトの細かい文字列を読んだ。

「あ!」

リーベンアンドブロートのシェフって奥さんと生まれたての子を置いて外国に行っちゃったんだって。酷いエゴイスト』

別に炎上してるわけじゃ無いけど気になるし傷つく。

「なんなんだ、これ」

「店のエゴサしたらこんなものが出てきて。酷いですね。書き方に悪意を感じます」

「本当だ、中谷さん教えてくれてありがとう。俺こういうのに疎くて」

「また何かあったら言いますね」

「うん」

 

 

家族が心配だ、また律子に迷惑をかけてしまった。

 

 

その夜

修造は久しぶりに家に帰った。

「修造おかえり」

「ごめんね中々帰ってこれなくて、子供たちは?」

「もう寝てるわ」

愛妻律子とただいまのハグをして、修造は今日の事を話した。

「律子ごめんね、迷惑かけて」

「そんなに謝ってばっかりしなくてもいいのよ修造」

律子は修造の顔を覗き込んだ。

 

 

修造、疲れてる。クタクタなんだわ。

なのに無理してる。

こんな修造見たの初めて。

修造はいつだって情熱に燃えて生きてきたのに。

 

律子は膝枕をしながら修造の言っていた店の評判を調べた。

これね

フン

エゴイストですって?

他人に私達の何が分かるって言うの?

バカみたい。

 

 

「私達こんなの全然平気よ、これってお店の評判を下げようとしてるのよ。そっちの方が心配だわ。気を付けてね」

 

ーーーー

 

次の日

 

小手川パン粉が江川に会いに店へやって来た「あれ、江川さんは休みですか?」

江川の姿が見えない。

「江川さんは一週間程来てませんよ」安芸川が返事した。

横にいた姉岡も「あんまり来ないと忘れちゃうよね」と言った。

「体調悪いとか言ってましたか?」

姉岡はそっけなく「さあ」とだけ答えた。

パン粉はすぐに買い物をして江川のマンションを訪れた。

「パン粉ちゃん」

江川はパン粉の顔を見てほっとした様だった。

「ねえ、もう何日も休んでるの?体調悪いのかと思って来たの」

「ありがとうパン粉ちゃん」

「何か作るから座ってて」

パン粉はキッチンで玉ねぎを薄切りにした。それをバターでゆっくりじっくり炒めている間にコンソメスープを作り、玉ねぎと合わせて煮込んだ後、器に入れてバゲットの輪切りとチーズをのせてオーブンに入れた。

あたりはスープのいい香りに包まれた。

チーン

出来上がったオニオンスープを江川の前に置いた「食べよう、これ食べたら元気出るよ」

「あつ」カットしたバゲットとチーズがフタの様になって冷めにくいスープをスプーンで掬ってフーフーしながら食べる。

 

 

「美味しい」江川はパン粉の顔を見た。

「でしょう」パン粉は江川の顔に沢山ついた涙のスジを見ていた。

「ありがとうパン粉ちゃん。僕の為にこんなにしてくれる人がいるなんて凄く嬉しい」

「ねえ、江川職人、何か困ってる事があるんでしょう?私にも分けてよ。でないと私も辛いよ。話してくれない?」

 

「うん」

 

江川はしばらく黙ったあと話し出した。

「僕、高校の時不登校になったんだ」

「そうなんだ」

「僕、周りの人と違うんだ同級生の誰とも違うんだ。男とも女とも」江川はパン粉に心情を打ち明けた。

「今もそうなんだ、みんなの事が大好きで仲良くはできるけど愛とか恋とかっていう気持ちがないんだ。ひょっとしたら誰も愛せないまま終わるかもしれない。だからってみんなが嫌いなんじゃないんだ。修造さんやパン粉ちゃんの事が大好きなのにそういう事とは少し違うんだ」江川は両手を握りしめた。

「僕は僕の事がよくわからない、身体は男だけど男でも女でもないんだ」

パン粉は泣いてる江川の頬を両手でそっと包んだ。

「僕にはそれをどうすることも出来ない」

 

「ねぇ江川職人、別に誰かを好きになったり結婚したりみんながしてる訳じゃないじゃ無い?1人の方が気楽って人もいるし、今って前よりも色々な選択肢があるのよ。男だからとか女だからとかもうどうだっていいのよ」

 

 

そう言いながら両方の親指でとめどなく流れる江川の涙を拭った。

「まだ出会ってないからなのか私にはわかんないけど。恋愛なんて言葉、それだけが人生じゃないもん。今の世の中って別に誰とも結婚しないでも良いし、ずっと1人で生きてる人も沢山いるのよ。自分だけが孤独とか1人って訳じゃないよ。自分の分類みたいな事は誰にもして欲しくない。自分の事を誰にも決められたくない。人は人よ、その人達が勝手に自分と違うとか思ってるだけ、江川職人は江川職人なのよ」

「パン粉ちゃん」

 

急に江川の目の前がパッと輝いた。

 

今までどこにもなかった道が急に見えた様な気持ちになる。

 

「私は江川職人と出会って良かった。この間みたいにさ、また映画に行ったりカフェに行ったりしようよ。私達友達でしょう?まだまだ見てない事や知らない事が沢山あるのに勿体ないじゃない」

「パン粉ちゃん」道が開けたのと同時に今まで探していた宝箱まで見つけた。そんな気持ち「本当にありがとう」

「私本当の名前は瀬戸川愛莉って言うの」

「そうなんだね、愛莉ちゃんって呼んでも良い?」

「うん、卓ちゃん」

「私達の未来って私達が思ってる程決まってないじゃない?これからの事は誰にも分からない、でも私達が親友って事、それだけは確かよね」

2人は手を握り合い顔を見合わせてウフフと笑った。

 

そうか

 

僕自分の事を型にはめようとしてはみ出してるのが辛かったんだ。

こんな風に思ってくれる人も居るんだ。

僕愛莉ちゃんと居る時とても気が楽だな」

「私もよ、だって私達親友じゃない」

親友というとても素敵な言葉に江川は凄い強いアイテムを受け取ったような気がした。

心に温かい何かが芽生えた。

 

ーーーー

 

その頃

岡田と修造は事務所で話していた。

最近の岡田への信頼は著しい。

「こんなものを見つけました」と言ってマーケットプレイスの画面を見せた。

「このリボンをよく見てください、グリーンの」なんだか見覚えのあるドリップバッグをガン見する。

「あ!うちのリボンじゃないか!このまま売るなんて雑な事するなあ」

「いい様にされてますね」

「だらしなくて恥ずかしいよ全く」

 

2人はその後防犯カメラを見ながら怪しい人物を特定していた。

「あ、これ見てください」

なんとカメラギリギリの所から白い手が見えて5個入りのドリップバッグを2つ持っていくのが映っている。

「とうとう見つけた!でも誰かまではわからないな」

「そうですね、動画のこの部分の時刻は朝6時。完全に店の者です、しかもカメラの死角を知ってるんじゃないですか?」

「あ、カメラを付けた時に2人にカメラの範囲を見せたよ」

「その2人のうちどちらかかも知れない」

「だな」

「会話は何か撮れていませんか?」

「音は出ないんじゃない?」

「そうですか?」

岡田はアイパッドの音量を上げた。

「修造シェフ」登野が改まった感じで話しかけて来た。

「あ、じゃあ僕はこれで業務に戻るので」

「うん、岡田君ありがとう」

修造は岡田を見送ってから登野の方を向いた。

「登野さんも辞めるの?」

「えっ?いいえ」

「あ、ごめん。勘違いしちゃった。えーと何かな」

「江川さんが来なくなって気になってはいましたが、今まで黙ってた事があったんです」

「江川の事?」

登野は体育会系なのかスポーツマンらしいキリッとした態度で言った。

「はい、私、和鍵さんが白栂さんに江川さんの事を悪く言ってるのを聞いてた事があったんです」

「そうなの!」修造は初めてはっきりと和鍵のやっていたことを聞いた。

「白栂さんはそそのかされて江川さんを傷つける事をしたんですが、みんなに白い目で見られたり、修造さんに呼ばれた時に焦ってました。それで分が悪くなったので辞めたんです」

「和鍵さんの目的はなんなの?」

「それは、江川さんが気に入らないと言っていました。追い出そうとしてるんだと思います」

「なんだって?」

 

 

修造はすぐに1階へ降りて行った。

臓物の底からじわっと怒りが込み上げる。

 

いやいや、冷静にならないと。

 

深呼吸してから工房のドアを開ける。

 

「和鍵さん、ちょっといいかな」

「何ですか?修造シェフ」和鍵はニコニコと廊下に出てきたが、修造の怒りに耐えた表情を見て真顔に戻った。

「ここは俺と江川の店なんだ」

「でも社長は修造シェフですよね?」

「そうだけど。江川はずっと俺について仕事していた。誰よりも俺のパン作りをわかってるんだ。江川や江川の仕事を馬鹿にするのは俺のパン作りを馬鹿にしてるのと同じことなんだよ。もしそうならもう一緒には仕事できない。ここから出ていって欲しい」

和鍵は全てばれたと思い黙って聞いていた。

「俺たちは店と言う同じ船に乗ってるんだ。よく考えておいてね。今日はもう帰っていいから」

 

 

いつもより早く帰って来た和鍵は、台所のテーブルで求人誌を見ていた。

それを見た母親が心配そうに声をかけた。

「希良梨どうしたのそれ?転職するの?」

「私辞めさせられるかも。私なりに一生懸命やってたのに」

「え?ねえお父さん希良梨が辞めさせられるかもしれないって」

「なんだって?どういう事なんだ。入社した時はあんなに張り切ってたのに」リビングにいた父親がやって来た。

「パワハラかなんかか?」

「ある意味そうかも。江川って人とそりが合わなくて、そしたら辞めて欲しいって」

「なんですって?私達にまかせておきなさい。学校でも塾でも何かあったらすぐに先生にねじ込んで文句いってやったら言いなりになってたんだから同じ調子でやればいいのよ」

「解雇だと?訴えてやる。弁護士の先生に電話しなさい」

「えっ」

和鍵はこんな時の親の瞬発力を何度か見てきた。

何かあったらすぐに学校に意見したり先生を泣かせたりしていた。それが和鍵が自分を守る為の嘘でも何でもだ。

「元気を出して!パワハラ裁判!勝てるわよ絶対!」

和鍵はそんな親の顔をじっと見ていた。

この人達が私を育てたんだわ。

和鍵が過去に学校で注意された事や、最近では職場で修造に言われた事を親に言う時、一部は言うが全貌を言う事は無い。常に自分を庇うように習慣付いている。自分の性格について知ってはいるが認めたくは無い。それでも両親は自分の事をまるで疑ってはいない。

立花の言葉を思い出す。

 

『このままで良いのかな。私はここにいて少しでも修造さんの技術を学びたい。それが自分の為になるのよ』

そう、修造を裏切りたい訳では無かったのに。

 

ーーーー

 

誰もいない工房で修造は1人パンの分割をしていた。

分割した生地を丸めてどんどん箱に入れていく。

いざとなったら自分1人でも仕事できるんだ。全員がいなくなっても。でもそれだと俺は何の為にこの店を作ったんだ。

静かな工房で1人考えを巡らせる。

コンコン

裏口から人が?音の方を振り向く

「誰?」

「久しぶりだね修造君」

 

 

「那須田シェフ!」

「開店おめでとう」

「ありがとうございます」

「そろそろキテると思ってね、やってみると色々大変なことばかりだろう?」

「はい」

「誰でも通る道なのさ。今日は手伝いに来たんだよ、以前手伝って貰ったお返しにね」

「その節は勉強になりました」

修造は今の職場の状態を話しながら仕事をして、那須田は慣れた手つきでクロワッサンの成形をしていった。

「すごい!お客さんに那須田シェフの作ったクロワッサンって言いたいです」

那須田は何も言わずに微笑んだ、そんなこと良いじゃないかって感じに、そして言った「昔は結婚したら幸せになれると思ってた時代があった。今は何だろうね『転職したら幸せになれる』かな?実際幸運度の増した人も沢山いるだろうし後悔してる人も多いだろう。結局みんな人それぞれの理由があるんだよ。君のせいじゃ無い。そうだ、俺めちゃくちゃ仕事早いんだ。だから早く片付けて一杯やろううよ」

「はい」

本当に那須田はパンの仕込みを素早く済ませて片付けにかかった。

「神業だ」

「俺も君みたいに夜一人で仕事してんだよ。雑念を振り払ってね」

 

2人で外のベンチに座り買って来た酒やつまみを広げた。

「まあ飲めよ」

「はい、那須田シェフ、雑念を振り払うってどうやってんですか」

「そうだな、僕はいつも日本海に向かって叫んでる」

「叫んでる?」

「そう!すっきりするぞ」そう言って那須田は上を向いて叫んだ。

「うおーーーっ馬鹿やろーーーーーっ!ってな」と言って修造を促した。

修造は濃いハイボールを煽りやおら立ち上がって駐車場の向こうに通っている夜の高速道路に向かって叫んだ。

 

馬鹿やろーーーッ

 

経営者ってなんだ!

経営者ってなんだ!

俺はパン職人の修造だ!

文句あるかーっ!

 

ーーーー

 

2時

修造は事務所のソファで目が覚めた。

那須田はもう帰った様だった。

「タクシーを呼んだのかな?」

トントンと階段を上る音がする「那須田シェフ」

ドアが開いた時修造は驚いた。

「修造さん」

「あっ!江川!」

「修造さんすみませんでした。僕もう大丈夫です。それで、パン粉ちゃん、瀬戸川愛莉ちゃんがテレビや取材のない日にお店で働いてくれるって言うんですが良いですか?」

「うん、助かるよ」

修造は江川をめちゃくちゃ心配していたが、江川が自分で乗り切って表情も変わったのを見て心からほっとした。

「俺、心配で」

「すみません」

ごめんなさい修造さん。大変なのに迷惑とか心配とかかけちゃったな。自分で店をするのってこういう「人」の事は避けられないんだ。常に色んなことが起こって、人の入れ替わりも当たり前なんだ。パンロンドが安定感ありすぎてわからなかっただけなんだ。昔は当たり前だった事が全然無くなって、常識を守るっていう意識も薄くなって自由になったんだ。

数ヶ月前の僕はパンの世界のキラキラした物を修造さんと一緒に追いかけていた。

江川はトロフィーを手に取った。

ずっしりと重い。

これを受け取った時の気持ちを忘れないようにしなくちゃ。

 

 

 

「僕もう平気だよ」

 

江川は久しぶりに工房で仕事をしていた。

一人、また一人と職人がやって来る。

「おっ!江川さん。もう体調は良くなったんですか?」

「心配したんですよ」森田と大坂が声をかけた。

「みんな心配かけてごめんね。僕もう大丈夫になったんだ」

 

5時

江川の様子を見に1階へ降りた修造は何げなく店の方を見た。

すると

誰もいない暗い店の中で、白い手が5個入りのドリップバッグをひとつまたひとつ掴んだ。

その瞬間修造は走っていってその手を掴んで「お前だったのか」と言った。

「何するんですか修造さん、落ちかけていたから直したんじゃないですか」

「えっ」

修造はやらかしてしまったのだろうか?

 

そんな事は知らずに和鍵が出社してきて江川に気が付いた。

以前とは何かが違う。

和鍵は江川に近づいて行って顔を寄せて言った。

「うざあ」両手を耳の上にあげてピョンピョン跳ねる仕草をして見せた。どうせ修造に見限られて退職を余儀なくされているんだし、誰に何と思われても構わない。

「そんな風に思ってるの和鍵さんだけだよ。他の人はそんな事思ってないもんね。可愛いのが好きなのも、この性格も生き方も、これが僕の個性なんだ。人にとやかく言われることじゃないよ。僕はこれからも変わるつもりはないし、僕は僕に合う人と付き合っていくつもり。和鍵さん、自分の性格を見直した方がいいんじゃない?」

「なんですって?」

こうもはっきり言われるとなんと言って良いかわからない。

江川と和鍵は睨み合った。

「修造さんに取り入ってるだけのくせに」

「それはそっちも同じでしょう?僕より経験浅いのに偉そうに言わないで。僕前も鷲羽君と編み込みパンで勝負して勝ったんだ。なんなら今やってやるよ。和鍵さんの得意な事でいいよ」

江川は急に和鍵に勝負を挑んできた。

それを聞いていた立花が説明する。

「昇進や昇格試験の時に速さを競う所もあるのよ。包餡やドーナツとかパンの成形とか、どちらが早くて綺麗か。和鍵さん、何にする?あなたの得意な事で良いって」

こないだまで味方だった人達はもうとっくに辞めてしまっていない。和鍵の吹き込みのせいで職場の印象が悪くなったのだから。

和鍵は周りのものに助けを求めた。

「こんなの急に言われても出来っこないわよね。無茶言うわこの人達」

「和鍵さん、私達ここに来て何日か見てたけど、やっぱり人を束ねる人っていうのは悪い方より良い方に導く人だと思うよ。何か貶して自分をよく見せるのは無理があります。結局それって自分に帰ってくるもん」初めは仲の良かった登野にもそう言われた。

「何よ!やればいいんでしょう?じゃあこれ」

と言ってコルネの型を持って来た。

前の職場で何ヶ月間かいた時、コルネの成形が得意だったのを思い出した。

「これを早く綺麗に成形できた方が勝ちよ。そして負けた方はここを辞める」

「良いよ」

2人とも絶対勝ってやると心の中で言った。

「コルネならこの店でも人気のダブルコルネの成形にしましょう、2人ともそれで良いわね」

「ああ、良いよ」

立花は間を取り持ってダブルコルネにして形を競う様に決めた。片方は抹茶クリーム、もう片方はチョコクリームを絞ったパンが引っ付いていて、一つで両方楽しめる可愛くて満足感のあるパンだ。2個組なので普通のコルネより生地は小さくて、その分巻くのは難しい。

 

 

数は20個

2個組なのでコルネの生地を40個使う。

「では始めて」立花の合図で江川と和鍵は2人とも生地を伸ばし出した。

一方の端を細く、もう片方は少し太く伸ばし、形の太い方に太い方の生地を巻き始めてクルクルと巻きつけていき、最後に細い所に巻いて留める。

いくつもの数を作っていったが2人とも甲乙はつけ難い。

同じ様に作り進めて行った。

「同じスピードだ」みんな驚いて見ている。

最後に天板に並べる時に急に江川が早く並べ出した。

 

あっ!

和鍵がまだ並べ終わっていないうちに江川が「はい!僕できたよ」とはっきり言い放った。

その声を聞いてからやっと和鍵は全てを並び終えた。

「初めからふたつをセットで持って並べやすい様に、向きを決めて並べていけばすごく早くできるんだ」

途中から戻ってきて黙って見ていた修造が口を開いた「何度も何度もやってるうちに気がつくことが沢山ある、それが経験値なんだ。そうやって色んな経験値を積んでベテランのパン職人になっていく。普段江川が仕事が早いのは材料を戻すときに次の材料を順に重ねて持ってくるからだ、当たり前の事だけど仕事の中に工夫を重ねることが本物の『時短』だ」

 

それを聞き終えて、負けた方の和鍵が「いいわよ別にやめればいいんでしょ?」と江川に言った。

「違うんだ和鍵さん、僕達せっかく一緒の職場にいるんだ。僕達修造さんの為に協力してやろうよ。明日からも一緒に仕事してよね」

 

「えっ」それを聞いて修造は感動していた。

 

江川、俺は嬉しいよ。

お前の事をみくびってたよ。

お前はきっと素晴らしいパン職人になれる。

 

 

江川が勝ったその夜

修造はこの一週間分の店の防犯カメラの録画を見ていた。

今朝は、姉岡がドリップバッグを持っている所を見つけて人気のない店の外で言い争いになったのだ。

「私が持って帰ったって言うんですか?」

「以前も防犯カメラに全く同じ調子の動きが映ってたんだよ」

「私の手って証拠がどこにあるんですか?もし証明できないなら訴えますよ」

「今『手』なんて言ってなかっただろう、『動き」って言ったんだよ」

「どっちでもいいでしょう。私は映っていませんでしたよね」

「姉岡さんって証明出来たら?」

「できません絶対」

という会話があったので今こうして動画をチェックしている。

「うーん、とりあえず姉岡さんが来てる時間に集中しよう」

閉店直後、姉岡はよく安芸川に話しかけていた。

修造はもう一台のカメラを見てみた「こっちはレジ側なんだ、2人はレジ係なんだからやっぱこっちかなあ」」

これは

 

修造はある会話に気がついた。

 

そして次の日に姉岡を呼び出す。

 

「なんの用ですか?今日弁護士の所に行きますから。裁判の準備があるので」

開き直った様にも見える姉岡に修造は言った。

「姉岡さん、防犯カメラに姉岡さんが安芸川さんと話してる会話の内容が撮れてたよ」

「会話?音なんて入ってないんだから会話なんて関係ないですよ」

「そうでもないよ」岡田に教えて貰わなければ音量の事など気にもしなかったのは我ながら恥ずかしい。

修造はちょうど姉岡と安芸川の会話の所を見せた。

『私さあ、デザインの専門学校に行ってた時奨学金を借りてて返済が結構残ってるんだよね』

『そうなんですね』

『だから店の商品を売り飛ばしてでも返済に充てなきゃ』

『そんなことしたら捕まりますよ』

『大丈夫よ、どうせわからないって』

修造は姉岡の顔を見て言った。

「まだあるよ」

と言ってその日のその時間にカーソルを合わせた。

姉岡が安芸川にスマートフォンの画面を見せている。

『これ私が書き込んだのよね、店の評判がさがったら少しは暇になるわよ』

という画面を見せて「これは安芸川さんに裏をとってあるから。俺の事を書き込んだよな」と画面を人差し指でトントンと叩いた。

「グっ」

「家に帰ったら家族に言えよ。裁判中お前がドリップバッグ持って帰ったり職場でペラペラ喋ってる所を証拠の動画で見ることになるだろうってな」

「俺を晒してちょっとは店が暇になって楽になるって?それも言わせて貰うからな」

 

 

修造は耐えきれなくなってテーブルをダン!と叩いた「俺の前から消えろ」

姉岡は黙ってドアの方に行き、出ていこうとして振り返り「訴えませんから」と言った。

当たり前だ全く!厚かましい!

 

修造は岡田に顛末を報告しに降りた。

「こういうのって追跡が大変なので助かります」

「ありがとうな、ほんとに」

「いいえ」

修造は一見クールで何を考えてるのかわからないのに滅茶苦茶頼りになる岡田という青年を心から信頼していた「何かお礼できないかな」

 

 

ところで

修造はみんなが働いている工房や店の様子を見ながら仕込みをするのが習慣付いてきた。

 

 

和鍵は江川に負けた後もずっと来ている。その次の日も次の日も。そして訴えると言う事は無くなったし、もう江川には以前のような事は言わなくなった。

今はなんと江川が和鍵の面倒を見てやっていて和鍵もそれに従っている。

 

人の心って不思議だな

それぞれの考えや環境も違う

那須田シェフの言う通りだ

結局みんな人それぞれの理由がある

 

ひとつひとつ解決していくしか無いんだ。

 

そうだ

今後の事も考えて

有無を言わさぬ立場にしちゃおう

岡田を店のリーダーにして、江川を株式会社リーベンアンドブロートの専務にするぞ

この店の為に2人で力を合わせて貰おう

修造はそれを印刷して掲示板に貼った。

 

早朝

 

「修造さん」

江川が芝生の所にいた修造の所に走って来た。

「何だよ専務」

「ぼ、僕専務ですか?」修造が貼り付けた辞令を持っている。

「そう!頑張ってくれよ専務」

「は、はい!」

 

江川と2人朝日を見ながら言った。

「まだまだこれからなんだから」

 

 

おわり

 

※サワードゥの種継ぎ 残ったサワー種にライ麦粉と水を足して継いでいくこと

※スリップピール  直焼きのパンを窯に入れる為の道具。シングル布団より小さい物からその半分の大きさの物など大きさは色々ある。パンを乗せた後、奥まで入れてオーブンの入り口の出っ張りに引っかけて引っ張ると中にパンだけが残る仕組み。

 

那須田シェフが出てきたお話 スケアリーキングはこちら

http://www.gloire.biz/all/4675

 

この作品はフィクションです。実在する人物や団体とは何ら関係ありません。

 

 

 

 


2023年02月05日(日)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーベンアンドブロートができるまで

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーベンアンドブロートができるまで

 

 

パン屋開業の為に修造は江川と一緒に色々な土地を探した。

安くて交通の弁が良くて人が通いやすい、広くて落ち着ける場所を。そこはきっと花が咲き乱れてみんなパンを食べながらほっと一息つける所。そんな場所を探そう」

2人は東南駅の近くのアイリス不動産の小島百年子(こじまもとこ)と一緒に車でファミレスやカフェなどの居抜き物件や空き地を探した。

 

なかなかしっくりくる物件には当たらない。
遠すぎる、高すぎる、広すぎる、狭すぎるなど理由は様々


休みの日に何軒も見に行ったり、ネットで不動産屋の出している物件情報を漁った。

 

「そろそろ決めたいところですね」
「はい」
小島にも毎回物件を紹介して貰って申し訳ない。

 

アイリス不動産のネームが車体の横に入ったカローラに乗って物件を何件か見た後、3人が幹線道路沿いを走っていると、白い鳥が車について来た。
何気なく江川がその鳥を目で追っているとその鳥は左に曲がってひと気のない駐車場へ入って行った。

「すみません、今のところに戻って貰っても良いですか?」江川は小島に頼んで戻って貰った。
鳥は飛んでいってしまった様だ。

3人はその駐車場に車を停めた。そこは木々に囲まれた広い駐車場の奥に空き店舗らしい建物があって築年数はそんなに古くない様だったが壁の色は燻んでいて雑草が建物のぐるりを囲んでいる。

「長い事使われてないみたいですね」

「ここって空き物件ですか?」修造が小島に聞いた。「調べてみます」そう言ってアイリス不動産に電話をした。

「ちょっとお待ちくださいね」
そう言われて2人は建物の方へ歩いて行った。

 

 

駐車場の向こうの小道を歩いて暗い空き店舗の中を目を凝らして見た。カフェかレストランだったのか?

そんな感じのスペースがある。

そこに机と椅子を置いて、その奥はパン棚が沢山置けそうだ。

その左のドアの奥は工場が作れそうかな?

2人は建物の周りを回った。この窓の奥が工房で、2階には休憩室に事務所ができそうだ。などと色々な話がどんどん進んでいった。

一周して戻ると小島が「ここ、元レストランで子供さんが相続したらしいんですが話し合いによっては売却しても良いそうですよ」と言った。

すぐに場所を押さえて貰った。

これからは不動産屋を通じて売主との交渉が始まる。「詳しいことはまた決まり次第お知らせします。それと、、、」

「はい」

「もし借入金で購入されるなら見積書が必要になりますから知り合いの所で心当たりがあったら頼んでみて下さい」

「わ、分かりました」

 

その何日か後に不動産屋に敷地と建物の図面を貰う。

それを元に、無料見積もりの工務店を探して内装はああでもないこうでもないと相談して見積もりを書いて貰った。

その後,基嶋機械の後藤に連絡して駅前の喫茶アメリカンのテーブルに図面を広げる。

 


 

厨房を少しいじってオーブンやミキサーを置くスペースを作るとなるとそれは何センチでとか、特に中古にするか新品にするかとか何と何がいるのか2パターンの見積もりを書いてもらうことに決めた。

後藤は張り切って「とうとうここまで来ましたね!開店してお客さんがパンを買ってる所を想像してワクワクしますね」と白い歯を見せて言った。

「はい。よろしくお願いします」

一応新品の方の資金計画書を出して通らなければ一緒に考えましょう」

「はい」

基嶋機械のベテラン営業マンの後藤は一緒に考えましょうと言ったが、もうちゃんと中古も押さえてある、だが資金によっては全部新品にしたり一部を中古にしても良い。

 

次に修造は後藤の車で店舗の外観を見に行った。

「経費を浮かす為に細かい補強は自分でやりますのでいい配置を一緒に考えて下さいね」

後藤はおでこをつけて窓の中の暗い厨房を見ながら「あそこにオーブンを置いてそこにパイローラーを置きましょう!ミキサーはこっち、その隣がドゥコン」と指差して興奮気味に言った。

その後もあちこち見て回った。木が鬱蒼と駐車場の日当たりの良いところに伸び放題だ。庭師を呼んで木を剪定したりここに花壇を作りたいと相談したりと。。まだまだ色々やることはある。

 

ーーーー

 

興善フーズの五十嵐にも開店当時に要りそうなものの見積もりを書いて貰って、なんだか見積もりが分厚くなって来た。。

不動産屋には売主との手付けの日にちを決めたいので資金繰りが決まったら教えてくれと言われている。なので不動産屋にも正式な土地の測量図と売却金額の乗った書類を貰わなくては。

修造は小島に連絡した「あの、土地代っていくらぐらいなんですか?」「いくらなら買って貰えますか?」などと言う腹の探り合いをする。土地の相場は都心から離れているし駅からも遠いので1200万〜1500万と言われる。結局いくらお金を借りれるかまだわからないと言う話になる。

修造は後藤から※新創業融資制度というのがあると教えて貰った。無担保・無保証人で融資が受けられる。ただし自分の持ち金が創業資金総額の10分の1以上の自己資金を持っていなければいけない。それと、勤めている企業と同じ業種を始める者に限る。などの取り決めがある。

 

 

色んな見積もりや創業計画書、申し込み書類を持って金融公庫に行く。受付の人に個人か法人かと言われて、逆に相談した。そして後々の事を考えて、途中で代表を代わるなら株式会社をと勧められ、そうする事にした。その時に名前を決めなくちゃいけないので色々考えるが、結局生活とパンの関連性を考えて株式会社リーベンアンドブロートLeben und Brot生活とパン)にする。

株式会社にするならするで法務局に行って用紙を貰い、登録するのに書類を作る。しかし会社の概要とか定款とか、、やっぱここは司法書士に頼まなければ俺には無理だ、、そう思い、法務局の近くの束根{たばね)司法書士を訪ねて、今はこんな感じだとか相談した。会社ができて金融機関に書類を出して、後戻りはできない感じが強くなる。もうこうなったら全てを前向きに進めないと。。修造は足元にジワジワ押し寄せる不安を蹴飛ばして振り払った。

不動産屋の小島から連絡がある「地代ですが都心からも離れていますし、元々土地代は安かったです。建物の解体をしなくて良いなら1500万で良いそうですよ。ですので手付金は10分の1の金額で150万になります。駐車場と広場と店舗でこのお値段はお買い得でしたね!あの〜、他にも土地を買いたいと申し出るものがいるんですよ〜金融機関から振込の日がわかったら知らせて下さいますか?勿論1番に申し込んだ田所様が優先ですので。安心して下さい。それ以降はネットで販売を告知することになってるんです。なのでなるべくお早めにお願いしまーす」

電話を切った後「何が安心なんだ。今までほったらかしだった土地なのに急にライバルが現れるもんか!」と独り言を言ったが本当の事は電話のこちら側の修造にはわからない。しかしそう言われたり、期限を切られると焦る。

 

ーーーー

 

「あぁ」

1500万という金額にビビる。何せ生まれて初めての事ばかりだ。仕事中ぐるぐる頭を心配事が巡る。

その横で杉本が呑気に昨日観たテレビの話を楽しそうにしている。

 

 

こんな心境の時には呑気な奴や呑気な CMなんかを見ると心から羨ましい。

こっちは審査が通るまではそれどころじゃないんだ。
眉間に皺を寄せて製造を続ける。

 

仕事しながら親方を見た。

親方も同じ思いを創業の時にしたんだろうな、まだお給料が貰える状態で良かった。

ホッとしながら親方の懐のデカさに感謝する。

 

 

程なくして金融公庫から審査が通ったと電話があった。

修造は今まで準備して来たことが無駄にならずにホッとした。

束根司法書士から登記ができた知らせが来だので急いで受け取る。とうとう全ての書類を揃えて持って行った。

株式会社リーベンアンドブロートで新規事業として3000万円のお金を借りた。代表は田所修造。金利は2.01% 

生まれてはじめての高額な借入金だった。

 

 

契約の瞬間震える手で印鑑を押す。

「やばい、俺不眠不休で働かなきゃ。」と冷や汗が垂れ、足元がヒヤッとした。係のものに冷静に淡々と今後の事を説明される。

今後の事とは返済計画書の返済金額と金利の合計金額が書いてある用紙についての説明と、もう一つ、団信(だんしん)とは団体信用生命保険の事で返済中借主が亡くなる事があった時はローンがゼロになる。考えるとゾッとするが残された者に迷惑がかからずに済む。これも証書が送られてくる旨を申し伝えられる。

帰りの電車で眉間に皺を寄せ、腕組みをして座りながら「うぅ」と呻く。

もう後には引けない。何がなんでもやらなきゃ。と頭の中で繰り返す。

1週間以内に資金が振り込まれると言われていたので、全てはそれからだ。

次は手付けの日取りを決める。

相手先と対面して現金で全体の10%を持参するのだ。

 

修造はアイリス不動産に指定された日時にやって来た。

「田所様お疲れ様です。まず店長から購入の流れをご説明致しますのでこちらへどうぞ」と小島に応接室に通された。

横の座席に穏やかそうな夫婦が座っている。この人達かな?と思いながらそことは仕切られた横のテーブルに案内される。程なくして1人の貫禄ある男が現れた。

「田所様、初めまして、私店長の副馬武和と申します。

「どうも」

近頃は沢山の人に会い、沢山名刺を貰ったが覚えきれ無くありつつある。机の脇に置いて名前が見える様にした。

副馬は分厚いファイルを修造に渡した。購入時の決まりとか流れについてひとつひとつファイルをめくりながら丁寧に説明された。
その後売主と対面。やはり隣の
2人だった。

あの土地は何に使われるんですか?」

「はい、ドイツパンが中心のパン屋をやる予定です」

「へぇー!パン屋さんになるんですね。うちの父があの土地でレストランをやっていましたが、父も引退してからは手付かずでした。また活躍できて良かったです」

「大切に使わせて頂きます」結構和やかな会話ができてホッとする。

そこへ店長と交代で小島がやって来た。

「それでは今から印鑑を押す場所ををご説明させて頂きます」

急に皆ピリッとする。

初めてで緊張するし押す場所を間違えたら面倒なことになりそうだし。

それではこちらとこちらに印鑑を押して頂きます。こちらに割り印も」

失敗のないように付箋が貼られた箇所に小島が指差して印鑑を押させた。金融公庫の用紙もそうだったが、最近のこういう紙は印鑑が実に上手く押せる。

修造は手が震えたがなんとかブレずに綺麗に押せた。

無事印鑑を押した後のホッとした事と言ったら!

修造は誰にも分からない様に安堵の溜め息をつく。

その後手付金の受け渡しだ。丁寧に150万を数える。更に不動産屋への手数料を払い「もうこれであの土地は田所様が買う意思を示されましたので。今後田所様が土地建物購入をやめられる場合はこちらの金額は戻りません。もしも売主様がやめると言われた場合は割り増しての返金になります」

 

「へぇー」っと全員が言った。

「ここまで来て購入をやめるなんて事はありませんので」そう言って領収書を受け取る。

「今後の流れなんですが」副馬がまた説明を始めた。

そうだった、今日無事に済んでホッとしたが残金はこれからだ。

「はい」

「田所様がご指定の銀行で売主、アイリス不動産の小島、司法書士が集まって残金の1350万円をお支払い頂きます」

「わ、わかりました」

「司法書士の手続きが終わったらご連絡致します」ここでも不動産屋と司法書士の人への手数料がいる。

一旦通帳に入金されてホッとしたのも束の間、もうこれ以降はどんどんそれを使って開店への運びとなる。

使いすぎに気をつけよう。

小島は分厚いファイルに書類を挟んでアイリス不動産の紙袋に入れて「お疲れ様でした」と修造に渡した。

「ふぅ〜」帰り道自転車を漕ぎながらなんだかわからない大きな息をつく。

緊張したな」

 

ーーーー

 

さて1番に買うものは高額なオーブンなどの機械ではないかと思っていた。内装は自分でやろう、そしてエントランスや外観もだ。

修造は後藤に連絡した。

正直に土地代を差し引いた残高の事を話す。おそらく全額を自分の所の機械代に使わせるとは考えないだろうと思ったからだ。

後藤から見たら残高はそんなに無い。諸経費を甘くみてはいけない。

残高なく開店するのは危険な事だ。

特に何回かの仕入れの支払い分は残しておかなければと考えていた

なのでオーブンもそうだが、新品と集めた中古の中から良いのを吟味した。

「修造さん、このカタログのこちらとこちらのオーブン中から良いのを選んで下さい」

「ハード系に強いのはこっちですよね?」「はい」

オーブンだけではない、ホイロ、ドゥコン、ミキサー、パイローラー、モルダー、ラック、ガス台、生地用冷蔵庫、台下冷蔵庫、冷凍庫、生地用冷凍庫などなど、、

正直これを中古にすると料金的に抑えられるがこれは!というものを新品にしたい。

「オーブンとミキサーは新品でお願いします。あとは見てから決めても良いですか?

「えっ?うちとしては嬉しいですが、予算的に大丈夫なんですか?

「はい、何もかも中古っていうのになんか気がひけるんです」

「自分の物なのに誰に対して気がひけるんです?」

「またそのうち分かりますよ。後藤さん、俺2年のうちに利益を出して借りた殆どを返す予定なんです」

「繰上げ返済の事ですか?割と返済金も10年で返せる緩やかなものだと思いますが」

「とにかくその新品のオーブンにはバリバリ働いて貰う予定です」

後藤は若く燃える目の前の男を見て、確かにこの男ならやってくれるかも知れないと思う。

どのぐらい値引きできるか会社(基嶋)と話し合ってみます」

基本一括払いなので気を使うが、正式な見積もり書を作ってくると言って後藤は帰った。

 


 

さて、今日はとうとう土地建物代の残金を払う日だ。

待ち合わせの10時にNN銀行東南支店に行く。

すると皆が銀行の前で待っていた。

「お待たせしました」

「こちらへどうぞ」アイリス不動産の小島が奥の個室を予約していた。

「司法書士の田嶋です」「どうも」

先方の司法書士が挨拶してきた。

今日は土地建物代の残金、司法書士への手数料、不動産屋への手数料を支払う。

またしても双方が言われた通り慎重に用紙に記入する。

 

 

不動産屋とATMの前に行き、目の前で振り込む。画面を押す手が震えた。

司法書士と不動産屋に手数料を現金で手渡し領収書を受け取る。

無事終わった!

変な汗をかき、フゥと息をつく。

その後全員で土地を見に行き、手落ちがないか確認し合う。

「それではこれで」と東南支店まで送ってもらい、なんだかスッキリした様な、バランスが悪い様な変な気持ちで自転車を漕いで帰る。

 

ーーーー

 

こうなったらもう後には引けないのだ。

そしてとうとうパンロンドから去る時がきた前日。

江川と修造はパンロンドの閉店後、2人だけで裏口から入ってきた

「さあ、始めようか」

「はい」

2人は今までの感謝を込めて工場の機械を掃除しに来た。

 

 

 

デバイダー(分割丸め機の事。真ん中の赤いレバーを下げると生地に30個分のスジがつく。その後1番上のレバーと下についているレバーを同時に下げると機械が回転して生地が丸々仕組み)を手入れしてピカピカにしながら今までのみんなとの思い出を振り返えって涙が出てくる。

 

「みんなありがとう」その言葉は人にも機械にもかけられた。

「江川」

「はいなんですか」江川はオーブンのガラスをピカピカにしながら応えた。

「ここで色んな事があったな。色んなパンも作ったし」

「今までで1番楽しかったのはなんですか?」

勿論律子との出会いなのだがそれは恥ずかしいので他のにする「親方と2人でヘクセンハウスを夜中まで作ったり、みんなと催事に出たり色々あったな」

「じゃあ1番辛かった事は?」また律子を置いてドイツに行った時の事を思い出したが他にも色々ある。

修造はがっくり頭を下げてから言った「おれ、ここに来た当初はめちゃくちゃパンを焦がしたんだよ。ブザーがなったから開けてみて、もうちょっとだなと思って閉じたらタイマーの追加を忘れて結局全部焦がしたり。でも親方が全然俺を責めないんだよ。俺はそれが1辛かったな」やるせなくそう言った。が実は半分は律子に見惚れていたからだがそれも内緒だ。

「おれは親方が大好きなんだよ」

江川はわかりますと言った感じでうんうんと頷いた。

2人で思い出話をしながら夜中まで機械の手入れは続いた。

工場が綺麗になって2人は働いていた場所に一礼した。

「明日でパンロンドともお別れだな」

修造の言葉に江川も感極まった「はい」

 

ーーーー

 

次の朝

早番の藤岡と杉本がやってきた。

「あ、これは」

藤岡は周りを見回して言った。

「なんですかあ」

「俺が帰る前より綺麗になってる。機械が光ってる」

「言われるまでわかんなかったな」

「お前はな」

「サンタさんかなあ」

「時期もやる事も違うだろ」

藤岡は修造達だと気がついた。

「立つ鳥跡を濁さず」

2人が機械を拭いてるところを思うと泣けてくる。

いよいよなんだ」

藤岡は寂しさで胸が締め付けられた。

「藤岡さんほら見て!お鍋がピカピカ!」

2人は自分達の顔が写る鍋を見ながら言った。

「もうあの2人ともお別れだな」

「寂しいっすね。俺、修造さんのおかげでやる事見つけたし」

「俺も目標が見つかったよ」

 

 

 

2人が昼前に挨拶にやってきた。

鍵を返すと親方は男泣きに泣いている。

「元気でな、また店にも行くよ。今までありがとうな」

「お世話になりました。親方、奥さん、皆さん」「また店にも来てくださいね」

「困ったら相談に来いよ」

「はい」

皆涙涙でお別れが辛いが、2人で頭を下げて歩き出した。

その時

跡をつけている者がいた。そしてそのまた跡をつけてる者が1人。

だがそれはまたのお話。

 

江川は見えなくなるまで見てくれているパンロンドのみんなに何度も振り向き手を振った。

 

ーーーー

 

ベッカライリーベンアンドブロートのオープンの日にちを決めた。

もうこの土地建物は修造のものなので出入りは自由だ。
2人は駐車場から建物を眺めた。

「江川!あと3ヶ月で開店だ!」

「凄い!ワクワクしますね!僕出来るだけ手伝います」

「まずは内装からやっていく。明日から工務店の人が工場の設備をやりに来てくれるから、その後すぐに機械の搬入!」

「はい」

「今から車を見に行こうと思うんだ」

「配達の車ですか?リーベンアンドブロート号ですね!」

「そう」

江川と修造は中古車センターに行き、配達用の車を選んだ。予算が気になるのでなるべく安くて丈夫そうな軽を真剣に見て回る

注文は全て受けてこの車で納品する予定だ。車屋の人に車の横に店名を入れてくれる様に頼んだ。

 

 

工務店に頼んでガス、電気、水道の設備を整える。配管は元々あったので点検と一部新しいものにする。

その間に修造は江川と2人でまず建物の周りの雑草を全て綺麗に抜き、ホームセンターでタイルを買ってきて、工務店の人に教わりながら、店へのアプローチにドイツ風のタイルを散りばめた。

内装はシンプルでパン棚は見やすく沢山パンを並べたい。

工場の中は何人かで立ち回れる様に考えて作った。拭けばすぐ汚れの取れる鏡面張りの壁の素材を買ってきて取り付ける。

工事代を浮かすために自分でパン棚を作りながら「江川、パンはパンロンド時代のものと、ドイツパン、そして世界大会で作ったものを取り入れようと思うんだ。」

「はい!」江川は目をキラキラさせてこのパンはここであのパンはここでと張り切って考えていた。

さて、工場の感じができて来たら忘れちゃならないものがある。保健所に行って営業許可証の申請に行く。江川と2人で食品衛生責任者の講習会に行き、証書と札を貰う。

シンクは2槽でお湯と水が分かれたもの!ラッキー!保健所の許可に必要な物は流石元レストランだけあってちゃんとしていた。

こうして必要なものを一つ一つクリアしていく。

元々あったものはなんでも使い、庭の机と椅子は修理して塗り直したり、カフェ部分は中古でお洒落な机と椅子を探したりした。探してみれば中古のものも良いティーセットとかトレーとかあるものだ。

 

ーーーー

 

家族を連れてきて、ホームセンターで買ってきた花をこことここに植えて欲しいと頼んだ。

律子と緑は楽しそうに色とりどりの花を植えていった。そして庭に元々あった白いアーチの枯れ草を取り、蔦を這わせた。

緑が「これって何に使うの?」と聞いたので「結婚式とかに使ってたんじゃない?」と答えた。

緑は花嫁の真似をして花を手に持ち「ほら見て、こんな感じ?」とアーチの前でポーズした。

 

 

修造は大地を抱っこしながら「いつか緑がお嫁さんに行く日が来るなんて考えられない」と涙を浮かべた。

修造はこの店を道路の入り口から見て、ドイツ式のタイルに悦にいったが、ちょっと寂しいかなと思い芝生を両脇に植えることにした。店の前のアプローチの両端の地面に地道に四つん這いで芝を植えながら

店を作るってこうやって少しずつお金が出ていくんだなと呟いた。

俺は山の上にパン屋を作ったら機械以外は全部自分で作るぞ。

勿論薪窯もだ。今は勉強の時期なんだ。

自分で作って自分の城にして自分だけのパン作りをするぞ。

その前にここでドーンと当ててやる。

「よしっ!」タイルと芝生をみて満足げに言った。

 

ーーーー

 

機械の搬入の日

後藤が芝居がかった大袈裟な感じで「とうとうこの日がきました!」と言ってオーブンやミキサー、モルダー、パイローラーなど次々搬入した。「基嶋の新品のオーブンがリーベンアンドブロートにやって来ました」やや大声で張り切って言いながら写真を沢山撮ってるのでまたホームページに載せるつもりなんだろう。

「ここまで来るのに色々あったからお疲れでしょう」

 

 

後藤は修造の顔を見て「色々心配が尽きませんが大丈夫!もうダメだと思った瞬間また他の所から助けがやって来る、商売ってそういうものですよ、私はそんなシェフを何人も見て来ました」とベテランの営業マンらしい事を言った。

「悲喜交々、これから色んな事があると思いますが、お二人で力を合わせていってください。何か困ったら直ぐにこの後藤を呼んでくださいね」

閉店開店
後藤はその度に立ち会いその『色んな事』を見て来たんだろう。

「これからも力になって下さい」修造は頭を下げた。

 

ーーーー

 

その後もまだまだやる事はある。

仕入れ、用具の購入、店のレジはどんなものにするのか、事務所の机や椅子、更衣室のロッカーの手入れ、従業員募集、制服決めなどなどキリがない様に思えた。

さて、従業員募集の件だが、修造は広告を出す事にした。料金表を見ながら「結構値が張るがこの大きい枠にしよう」と面接の全てを江川にやらせた「お前の合いそうな人を探すんだよ」

とはいえ実際一緒にやってみなければこればっかりはわからないしなあ。

3ヶ月の工事期間を経て、いよいよ工場で仕事出来る様になった。プレオープンは1週間後。

パンロンドのみんなや鳥井シェフや大木シェフにも来てもらうことにして律子に招待状の葉書を書いて貰った。「なにこれ!桐田美月って?本物の?来てくれるわけないじゃ無い!それに売れっ子お笑い芸人のマウンテン山田さんまで招待状出すの?厚かましい。それにこの住所あってるの?」「江川が出してくれって言うんだよ。絶対来てくれるって」

「え〜」律子は笑いながら半信半疑でハガキを出した。

程なくして修造に電話がかかってきた。

「はい」

「修造シェフお久しぶりです。NNテレビのディレクター四角志蔵です」

「あ、お久しぶりですね、四角さん」

「実は女優の桐田さんからお話を頂きましてね、是非桐田さんの進行でリーベンアンドブロートの取材をさせて頂きたいんですが」

「えーーっ」

 

 

全く思いもしない事で修造は驚いた。そして桐田の顔を必死で思い出そうとしたが何となくしかわからない。「有名な女優さんなのは知ってるけど顔と名前が一致しないんだよ江川」「修造さん何言ってるんですか、ほら!パン王座決定戦の時に審査員席に座ってた赤い衣装の女優さんじゃないですかあ。その時また会いたいって言ってたし、こないだテレビに出た時もわざわざ握手しに来てくれたでしょう?」と言ったらすぐ隣にいた律子に聞こえていた「それほんとなの?修造。また会いたいですって?」その時の事を思い出した修造は汗をかきながら「えっそんな事あったっけ?」と誤魔化した。

 

修造はディレクターの四角と話し合ってプレオープンの日に撮影に来る事になった。

プレオープンの日は5月11日、グランドオープンは15日に決めた。
「修造さん、ホームページとかSNSとかやった方がいいですよね?」
「簡単なやつでいいよ江川」
「安く作ってくれる人達の載ってるサイトから頼んでみましょうか?」
「そんなのあるんだ!探してみてよ」
「わっかりました〜」

そうだ!2階の更衣室や休憩室、事務所の事も考えなきゃ。
と言う訳で壁紙は前のを使う事にして他の物をホームセンターに買いに行く。

カーペットと机、椅子、ロッカーにマガジンラックを更衣室と休憩室に。

事務所には江川がネットで買ったパソコンデスクと来客用の机と椅子を置くつもりだったが可愛らしいピンクのソファが届く。

「ちょっとこの色、、」

「可愛いでしょう?」江川は恥ずかしがる修造を横にならせた。色はともかく3人掛けのソフアに横になってみるとフカフカで寝心地が良い。
「こりゃいいや」と言ってそのままいびきをかきだした。

「お疲れ様です」と言いながら江川は上着をかけてやった。

 

ーーーー

 

「修造さん、パン好き女子の小手川パン粉ちゃんが何日間か僕と一緒に駅前でチラシを配ってくれる事になったんです」「えっつ本当?助かるよ江川」「僕たちとっても仲良しになったんです」

いつの間に、、、江川の社交性に驚きながら本当にオープンに向けて真っ直ぐ突っ切る感じが強まってきたと実感する。

保健所の施設検査も合格したし、1回目の仕入れも済んだ。

明日からは本格的にパン作りを行う。

「本当にいよいよだな江川」

「はい!僕頑張りますね」

「うん」

ところが

修造は事務所机のセットの椅子に座って機械代やら店舗補修費その他諸々がこんなに嵩むとは、、と頭を抱えた。

チリも積もれば山となる。

後藤に言われていた通り2ヶ月分ぐらいの分の支払いの金額は残しておきたい。

修造は細かく何がいるか計算するために粉屋とか資材屋、包装紙屋などに貰った見積書をもう一度見直して計算してみた。そして人件費、光熱費、社会保険料、税金、その他諸々。

「全然足りないじゃないか。開店の時は行列を見越して大量仕入れしないと。こんなんでやってけるのか?」そう言いながら仕方ないなんとか回していかないとと覚悟を決める。初めの売り上げを支払いに回していくしかない。

 

不安だな。

 

そこに一本の電話が修造に掛かってくる。

「はい」

「修造さんですか?ご無沙汰しております。私株式会社メリットストーンの有田でございます」

え?あー!あのヘッドハンティングする為に付き纏ってた人!

「あのー何か御用ですか?俺今度こそ店を開店するんですよ」

「存じております。その事で電話しました」

「はあ」

「実はあの時お騒がせしていた鴨似田フードの奥様なんですが」

「まだ藤岡を追い回してるんですか?やめてやって貰えますかね?」

「勿論ですよ修造さん、あの時ご迷惑をおかけした事を反省されていますし、波風が立たない様にして下さった事をいたく感謝されておりまして、御開店の時の材料等3ヶ月分をお使い頂きたいとの事です」

「え!」

「私が繋ぎ役を買って出ました!」

 

ーーーー

 

 

有田は事務所にやってきて遠慮する修造にあれこれ使いたい材料を聞きだして、あれよあれよという間に鴨似田フーズからやって来た例の2人の男と共に大量に材料を並べた。「これが奥様からの開店祝いでございます、また来月も持って来ますんで」2人から言われて唖然として見ていると「御伽話みたい」と江川が言うので、「だな」と、やっと声が出た。

「こんなにして貰って感謝してますが、大丈夫なんですか?奥さんは?旦那様に叱られるのでは?」

「社長は奥様に自由過ぎるほど好きにさせておられるので」と2人が声を揃えて言っていた。修造は薄っすら残る鴨似田フーズの奥さんとやらの記憶を辿って可愛い奥さんだしそうなるんだなあとぼんやり納得。

「俺、絶対良いものを作るんで感謝してるって言っといて下さい」修造は頭を下げた。

これが後藤さんの言ってたそれか。

このチャンスを無駄にせず全て美味いパンに変えるぞ!

そう固く誓う。

 

さて、プレオープンの前に2人で試し焼きを夜通し続けた。

「今日は従業員さん達が初めてリーベンアンドブロートで作業を始める日ですね」

「うん」

ここまで長い長い道のりだった。だが今日からが本当の始まりだ。

 

「江川、外に出ようか」

「はい」

窓の外が明るくなり、空が赤く染まって来た。

 

2人は駐車場の入り口から敷石とその向こうの店舗を見ながら言った。

 

「やっと俺達の店ができたな」

 

 

おわり

 

何とか無事に開店の運びに至った修造と江川
オープンはもうすぐだ修造!

 

※新創業融資制度 https://www.jfc.go.jp/n/finance/search/04_shinsogyo_m.html 後藤が勧めた制度

日本政策金融公庫 国民生活事業より。新たに事業を始めるとか事業開始後税務申告を2期終えていない人に無担保・無保証人で利用できる「新創業融資制度」条件をクリアしないと受けることはできない。

 

※今時は建物を相続しても解体費用に二の足を踏んでこのような空き物件があることがあるので辛抱強く居抜きや空き家を探してみるといい物件が見つかる可能性がある。

 

鴨似田フーズの奥さんが出てくる話はこちら

パンの職人の修造 江川と修造シリーズ   Annoying People

gloire.biz/all/5211

 

 

 


2023年01月02日(月)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ some future

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ some future

 

 

「修造パンロンドのみんなはどう?」

 

早番で早く帰ってきた修造に妻の律子が話しかけた。

 

「花嶋由梨って新入社員が入って来たんだ。丁度探そうとしてた所だったんでタイミングよかったんだよ」

「そうなの」

「今みんなで仕事を教えてるよ。今日は江川と一緒に生地の手ゴネをしてた」

「どんな人?」

「えーと藤岡の紹介で入ってきたんだよ。今度お店に来たら紹介するね」

と言いながら修造は、6ヶ月児の大地とうつ伏せになって向かい合った。

「大地これどうぞ〜」と言ってオモチャを渡そうとする。

「ほら、こっちだよ」大地はオモチャを取ろうとニコニコしながらハイハイでやってくる

すると修造は一周して大地に追いつきちょんちょんとつつくと大地が振り向いて大喜びして座ってパチパチして笑う。

追いかけて来るとわかっていて振り向きながらニコニコと急いでハイハイするのだ。大地はこの遊びが大のお気に入りで、2人の楽しいひと時だ。

そのあと、大地は座って修造が足の間にポンと投げたボールを可愛い手で掴んで「ダ〜」と言って投げ返してくる「大地上手上手」これが今修造の最も嬉しい瞬間だ。

「大地可愛い可愛い〜」と目を細めて大地に話しかけた。

「律子ホラ見て!歯が生えてきたよ」

律子も「大地歯が生えてきたね」と言って大地の顔をのぞいて笑った。

本当は律子は知っていたが、修造を嬉しい第一発見者にしてあげる為に黙っていた。

「ふふふ。可愛い」

 

「ただいま〜」

「あ!おかえり緑」

夕方は学校から帰ってきた長女の緑と3人で東南スーパーに買い物に行く

「今日空手道場の日だね、お母さんと大地も見に来てくれるかなあ」

「一緒に行きたいね」

「うん」

緑は修造と繋いだ手をゆらゆら揺らしながら「ねえ、お父さん、私達って仲良しよね」と言った。

「勿論だよ。超仲良し」

夕焼けの光に照らされて子供達の成長とこれからの未来に想いを馳せる修造だった。

 

ーーーー

 

次の日

修造は藤岡とハート型の※レープクーヘンを作っていた。

オブラートに生地を乗せて焼くとスパイスの香りが辺りに立ち込める。

チョコを塗りながら「乾いたらこれにアイシングしてみよう。すごく日持ちがして、袋に入れて紐で吊るして並べると可愛いんだよ」

「楽しみです」

「藤岡は吸収率が高いから教えがいがあるよ」

「ありがとうございます。もっと色々教えて下さいね」

「うん」

とそこへ、律子が大地と緑を連れて来た。

律子の実家から野菜が送られて来たから奥さんに持って来たのだ。

「修ちゃん、律子さん達が来たわよ〜」奥さんがお店から修造を呼んだ。

「あ!律子!」

修造は作業中の顔つきとはガラリと変わって嬉しそうに飛んで行った。

 

 

「凄いハッピーファミリーなんですね」

それを見た由梨が驚いて風花に言った。

「そうなのよ。普段強面なのに律子さんの前に行くとニコニコね」

 

由梨が見ていると奥さんが手招きしたのでそちらに行く

由梨ちゃん、この人が修造さんの奥さんよ。そして緑ちゃんと大地くん」

「初めまして花嶋由梨です」

「律子です。お仕事頑張ってね」

「はい、ありがとうございます」

 

3人が帰るのを見送った後由梨は結婚という言葉についてイメージしてみた。

自分もいつか結婚したり子供ができたりするのかしら。そして目の前のハッピーファミリーの様な暮らしをするのかしら。

ちょっとだけ藤岡を見てみた。

そしてこの間聞いた前の職場の先輩の事を思い出した。

「あ」

そうだった。全然遠い道のりだったんだった。

すぐそこにいるのに遠い。

 

ーーーー

 

次の日

由梨は仕事が休みの日なので東南駅の横の巨大ショッピングモールで服屋巡りをしているとペビーカーで大地を連れた律子に会った。

「こんにちは。お買い物ですか」

「あ、由梨ちゃん。こんにちは、そうなの。パンロンドはどう?とても働きやすい所でしょう?」

「はい、本当に。皆さんに優しくして頂いています」

「私も以前パンロンドで働いてたのよ。5年間工場にいたの」

「そうなんですね、、あの」

「なあに?」

「修造さんとはどうやって知り合ったんですか?」

「私は始めは販売員として働いていたのよ」

「えっそうなんですか?」

「そう初日にね、工場の奥のミキサーの所に修造がいてね、私が挨拶したの」

律子は当時の事を思い出して話しだした。

それはこんな風だった。

 

働き始めた初日。

奥さんが案内してくれて、奥からお店に向かって歩いて行って順番に挨拶していったの。工場の奥のミキサーの所に修造がいてね、私が挨拶したの

その時初めて目があって私を見て修造が思った事が私にはわかったの。

ドキッとして顔が真っ赤になったから私もドキッとしちゃった。

 

 

その後ね、何度も何度も目が合うのに全然話しかけてこなくてね。

もう多分話すことはないんだわって思ってた。

そんな時に事件が起こったわ。

突然ナイフを持った痩せた男が入って来て、奥に入って行こうとして私を突き飛ばした。後で聞いたんだけど、その人はお店とトラブルになった人らしくてね、大きい声を出してたし、めちゃくちゃ怖かった。そしたら修造が血相変えて飛んできてオーブンの前まで来ていた男の腕を掴んで脇腹を蹴って倒した。

揉み合ってるうちにナイフを掴んでしまって床が修造の血で一杯になってこっちが卒倒しそうだった。

その時ね、私この人から離れないって思ったの。

それから病院に一緒に行って

毎日手当に行ったのよ。フフフ。

そしてすぐに一緒に住みだしたの。

今も修造の手にはその時の跡が残ってる。

でもね

私は修造が大好きだったのに、、、

結婚して緑が生まれて間もなくして急にドイツに行くって言い出したわ。

 

「パンの修行の為に」由梨が合いの手を入れた。

 

「そう!凄く反対したわ。緑も小さかったし。

でも目の奥に覚悟が段々できてきて、絶対行くんだわって悟った。

5年間ずっと修造が帰ってくるのを待ってたの。

パンロンドで働きながら長女の緑を保育園に預けて

仕事が終わったら2人で帰ってまた次の朝が来る。

修造が大好きで会いたくて、でも意地を張ってメールの返信もしなかった。

ずっと後悔してるのよ。

追いかけていけば良かった

一緒にドイツで暮らせばよかった。

だからこれからずーっと一緒にいようと思ってるの」

由梨は律子が力を込めて言ったずーっとに何か意味があるのかと思って見ていた。

「はい」

「私達ね、山の上でパン屋さんをするの。修造がパンを作って私が販売して修造を支えるの。修造がパンを作ってる所がお客様にも見えるようにしようかな」

「素敵」

由梨は自分と藤岡の未来をちょっと夢見てみた。

「結婚って良いですね」

「ホント毎日が楽しいわ」

その姿は堂々としていて自信に満ち溢れ輝いてるように見えた。

子供達から必要とされる存在で、夫から絶対的に愛されている証拠のようにも見えた。

 

ーーーー

 

次の週

 

修造一家は法事で山の上の実家に帰っていた。

 

修造の家がある山の上半分は母方の先祖代々のものだ。

今は誰もすんでいないので、結構埃が溜まっている。

掃除しながら「やっぱすんでこその家だ。とはいえ元々ボロ屋だからな」と見渡した。

 

 

修造の実家は山の上にある平屋で、玄関の前は平らで広場の様になっている。

入り口の入って直ぐの所は6畳ぐらいの土間になっていて、左には部屋が2つぐらいの大きさの板張りの部屋がある。入り口の奥は台所とその奥に風呂トイレ洗面台。建物の右手には部屋が3つ

母親の法事中、無骨で無口な修造に比べてしっかり者の律子に皆感心した「あんなできた嫁ばよく見つかったもんたいね」と山の中腹に住む母親の妹夫婦が囁き合った。

皆帰った後、家族4人だけになった。緑は珍しい板張りの広い部屋をゴロゴロ転がって、大地はそれをハイハイで追いかけている。

「ねぇ修造。ここにオーブンを置きましょうよ」と左の部屋で両手を広げて言った。「ここに工房」そして入口の土間を指差して「ここがショーケース」こっちに棚を置いてこっちに台を置いて。と律子は張り切って言った。

「裏に畑を作って野菜を作るわ、修造はそれを使ってパンを作ってね」信州の実家が農家の律子は自慢げに言った。

「素晴らしいなあ。いい考えだよ律子」

今は昼間は別々だけどここなら昼夜なく同じ空間で一緒に過ごす事ができる。

俺の俺だけの工房で俺のパン作りをして、最愛の律子と毎日パン作りをここで。

二人は出会った頃の様に見つめ合った。

ここにいて2人で同じものを見て同じ様に感じて毎日を過ごして2人で歳をとろう。

ここら辺の湧き水は潤沢な硬水よりの水でパン作りに適してる。遠くに見える山の周りは牧場と農家が沢山あって良い材料が手に入る。

山を降りた所にある小麦農家と話して粉を卸して貰おう。

修造の夢はギラギラと膨らみ胸いっぱいになった。

外に出れば目の前は林の続く斜面でその下には広大な景色が広がり、その向こうはまた山が見える。その向こうは空だ。夕焼けが真っ赤になり何もかも赤く染まる。

「綺麗だわ」

律子はこの夕焼けを見ていつも感動している。

入り口は南向きだが工房を作る予定の居間は西に向いていて夕方は西日がきつそうだ。なので庭にベランダを作って長めの庇(ひさし)を作ることにしよう。ここに薪窯を作って外に薪の置くところを作って。など随分具体的になってきた。

初めて律子をここに連れて来た時に、美しい眺めに感動した律子はこの場所が気に入り、ここでパン屋さんをしようとどちらも言い出した。それ以来、いつかはここでと言う話は度々出ていたのだ。

修造は納屋に伐採用の鉈(なた)を取りに行った、すると便利な折込式のこぎりと充電式の電動ノコが見つかる、母親が使っていたのだろうか?にしては大型で結構新しい。不思議に思いながらそれを持って裏庭から斜面になって続く林に入り、枝を切り落として来た。

不思議な事に長い間ほったらかしていたのに周りの雑草や蔦はそこそこ手入れされている。さっきの親戚のおじさんが見かねてやったのだろうか。

誰が手入れしてくれてるんだろう」そう独り言を言いながら鉈で細長く切っていく。2年後に使う薪窯様の薪を準備して工房ができるであろう場所に大量に積み上げた

「これだけあれば開店当初の分はいけるだろう」

よく乾燥させないと木の芯に水分が残って燃えづらい。切って断面を空気に晒し、長く乾燥させた方がいい。

「2年間大人しくしといてくれよ」

 

ーーーー

 

パンロンドに戻った修造は神妙な面持ちで親方の前に立って話しかけた。

「親方!俺、、」

うわ、ついに来たこの時が。

 

 

親方は修造の表情を見て悟った。

「修造、俺はお前に感謝しかしてないよ。お別れは寂しいけどお前ならどこででもなんでもやれる。応援してるからな」

「ありがとうございます」

「それとさ、あいつきっとついていくんだろ?」親方は由梨と一緒に楽しそうに分割をしている江川を見た。

「親方、その事なんですが。俺と江川は店作りをするつもりです。でも俺、その後田舎に帰って一人で工房に籠るつもりです。それで江川には今までの感謝を込めて俺からのプレゼントを徐々に持たせようと思うんです」

「なるほどね。お前は本当にギブアンドテイクの男だよ。お前の思う通りにやってみろよ」

「はい」

「しばらくはまだ準備ができるまではうちにいるんだろ?」

「はい、すみません、勝手ばかりで。よろしくお願いします」

親方との話し合いで休みの日を平日に週2日にして貰った。手続きに動くなら平日の方が良いからだ。

家に帰って律子に親方との話を説明して、「あと2年待って欲しい。必ずその期間に開店資金を作ってみせるから」と頼んだ。

修造は律子に2度目の土下座をした。

「そんな格好やめてよ修造ったら、わかったわ。ダメって言ったらまたどこかに行っちゃうんでしょう?」

「そんな訳ないよ。山の上に行ったら律子と2人の時を増やす様に誓うよ」

 

その夜布団の中で修造は色々な計算が止まらなかった。

場所、開店資金、機械の購入などパン屋の開店は他の店の開店より結構かかるなんだろうなあ。

基嶋機械の営業の後藤さんにも聞いてみようかな。あの人なら何でも知っていそうだし。

あとは立地だな。。駅前の不動産屋さんに相談してみよう。

「どんな場所が良いかなあ」

 

ーーーー

 

次の日

先輩の佐久山と広巻、後輩の杉本が声を掛けてきた。

 

 

「修造、とうとう行っちまうんだって?寂しくなるよ。元気で頑張ってな」

「俺達は親方と一緒にまだまだ頑張るよ」

「勝手ばかりしてすみませんでした。パンロンドをよろしくお願いします」

「離れてても俺と修造さんとは兄弟っすよ!」

「わかったよ杉本。ありがとうな、がんばって次の技術士の試験も受けてくれよな」

「わっかりました~」

「江川、元気でな」

「はい、僕修造さんに付いて行っちゃいますけど僕がいないとみんな寂しくなっちゃいますよね」

「自分で言うなよ」

アハハと笑うみんなの会話を聞きながら藤岡は近くにいた由梨に言うともなしに呟いた。

「俺は修造さんの去った後もパンロンドを守り続けたい。その時はいつも修造さんの背中を思い出すだろう」

「はい」

修造を見ながらそう言った藤岡に

修造さんって朝焼けに輝く山の様な存在みたいなものなんですね」と、多分藤岡が思い描いている修造のイメージを言ってみた。

「そうなんだ。赤々と燃えている」藤岡は由梨の詩的でピッタリな言い方にちょっと感動して微笑んだ。

由梨は藤岡が例の『前職の先輩』の事もそんな風に思ってたのか気になる。

パン屋さん巡りをしていって、いつかその人が見つかったらどうするのかしら。藤岡さんはまだその時の気持ちのままなのかしら。

 

ーーーー

 

由梨の両親は東南商店街で無事着物屋『花装』を新装開店し、今は近所の賃貸マンションで3人で暮らしている。

パンロンドから戻った由梨は自室に籠りパソコンで藤岡の動画を探した。

 

 

確かパン屋への行き道を説明して、パンを買ったあと公園で紹介をするんだったわ。

結構色んな人がパン屋さんを巡ってる動画を出してるけどどれなんだろう?

パン屋さん巡りの動画は沢山あって見つからない。

そうだ、ウンタービルクを紹介してるのを探せば良いんだわ。

由梨は以前住んでいた町のパン屋ベッカライウンタービルクの動画を探していった。

その店のお知らせも見てみる。

「あ」

お店がホームページに貼り付けていた映像にテロップと曲だけの動画を見つけた。

「これかも」

各駅電車を降りた所からウンタービルク迄の道のりを動画とテロップで説明していて、2人が出会った川が映っている。

映っているパンの中にはあのヘルンヒェンとSchweinsohr(シュヴァンスオアー)もあった!

「間違いない。これなんだわ」

動画の名前は『各駅停車 パン屋探し』電車好きとパン好きが見るのか登録者数は多い。

一見普通の名前そうだが、何故こんな名前なのか由梨だけが知っている。

『各駅停車 パン屋探し』は、他にも沢山の店の動画があった。由梨はその動画を観ながら「これ、藤岡さんが撮ったんだ」と藤岡の表情や仕草を思い出して言った。

駅に着いて、歩いてパン屋さんの工場を覗いて、先輩がいるのか確かめたんだわ。

そう思うとなんだか切ない。

 

もし先輩が見つかったらどうするんだろうか。

何か声をかけるのか。

 

『あ、藤岡君久しぶり、元気にしてた?』

そう言われたら理想的な言葉をかけるのかしら「お久しぶりです。またお会いできて良かった」

それとも

「探しました、なんで俺を置いて行ったんですか。もう離れないで下さい」

とか

 

返事は分からない。

会ってみないと分からないんだわ。

だから探してる。

 

 

その夜

由梨は夢を見た

始めはとても嫌な夢だった

夢の中の由梨は随分歳をとっていて1人で料理屋に入る。1番奥のカウンターの席に座って食事をしていた。会計を済ませようと席を立つと自分が通った所の人は全員由梨に悪意のある目を向けた。

全員が見張っている。そして由梨にひどい言葉をぶつけた。由梨は逃げ出そうとすると手を引いて一緒に歩いてくれる人がいた。「もう大丈夫心配ないよ」とても優しい声でそう言ったので顔を見ると藤岡だった。

 

 

そこで目が覚めて

藤岡から離れたくないと

強く思う

もし出会えなかったら

私はあの夢の通りの生活を送る事になってたわ。

それとも本当に河に飛び込んでいたかもしれない。

 

藤岡さん

 

ーーーー

 

由梨と藤岡は二人でベルリーナという揚げ菓子にジャムを詰めていた。

由梨はそれを手早くトレーに並べながら思い切って言ってみた。

 

「あの、今度私もパン屋さん巡りについて行っても良いですか?」

 

「え」

 

「いいけど」

 

「助手って事かな?」

「あ!はい!そうです助手として」

 

藤岡は何か考えている様だった。

 

作業中沈黙が続き

 

でも最後にはこう言った。

 

「俺は今度の休みに動画を撮りに行こうと思ってる、由梨の行ってみたいパン屋さんはある?」

「はい、他の動画で美味しそうなパン屋さんがありました。勿論パンロンド程じゃないですけど。それといつか修造さんのお店にも行ってみたいです」

 

「そりゃいいね。じゃあお店ができたら行ってみよう」

「はい!」

 

 

みんながみんな

思いおもいに

少し先の未来を

想像して

また明日が

やってくる

 

 

おわり

 

※レープクーヘン はちみつ、砂糖漬けのフルーツ、スパイス、アーモンドなどのナッツの入ったお菓子。オブラートの上にのせて焼く。丸形、ハート型など大きさも様々。通常ヘクセンハウスもこの生地で作られる。デコレーションを施し紐を付けてクリスマスの飾りに使われる。

 

 

 


2022年12月07日(水)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ dough is alive

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ   dough is alive

 

 

フランスから帰ってきて何日か経った。

 

パンロンドの奥さんは手回しよく『世界大会優勝!田所修造・江川卓也』ののぼりを店先に付けていた。

修造と江川はパンロンドの出窓のところに世界大会で作ったパンデコレを飾っている最中だった。

「やっぱこの選考会の時のパンデコレは退けるよ。太陽の反射が当たってたし劣化してる。付け根がグラグラしてるし」

「ですね、崩れてきそう、僕のは小さいからまだいけそうですけど」

そんな会話を横で聞きながら、新入社員の花嶋由梨は2人のお手伝いをしていた。

「ねぇ由梨ちゃん、ここに冷却スプレーをかけてよ」

江川は溶かした水飴を接着面に付けながら指差した。

「はい」

 

由梨は藤岡を追いかけてパンロンドに来た。

動機は不純だが、世界大会の優勝者の修造のそばで早速勉強できるなんて凄い事だと思って2人の作業を見ていた。

これからみんなに色々教わってパン作りと言う新しい世界に飛び込んでいきたい。

 

とそこへ

「あのさ、修造く〜ん」

さっきまで電話していた親方が話しかけてきた。

「なんですか親方」

修造は嫌な予感がした。

「NNテレビのディレクターの四角志蔵さんから電話があって、修造と江川をテレビ局に呼んで取材したいんだってさ」

「えー俺テレビとか苦手なんで」と言いかけたらそれより大きい声で「はい!出ます!絶対出ます」と江川が大喜びで右手を上げ、ピョンと跳ねながら返事した。

「よしっ!じゃあ決まりだな」と言って親方がまた電話し始めた。

「江川、お前だけ出たら?」

「えー?助手の僕だけ出るなんて変じゃないですかぁ。僕出たがりだと思われちゃいますよぅ」それを聞いて修造はそうだろうが!と言いかけた。

 

 

「じゃあ修造!次の火曜日にNNテレビに江川と2人で行ってくれよ。ユニフォーム持ってきてくれってさ」

「はいわかりましたぁ」

「あの、、」

江川の元気な声に修造の声はかき消される。

「江川さん凄ーいテレビに出るんですね!家族と一緒に見ますね」

「うん花嶋さん。家族ってお店ごと今度東南商店街に引っ越してくるんでしょ?運良く空き店舗があって良かったね」

「はい、しばらくはバタバタしますが、早くこちらで落ち着きたいです」

 

ーーーー

 

次の火曜日

 

2人はNNテレビに来た。

「久しぶりに来ましたね修造さん」

「えー?うーん」

なんとも気のない返事をして、待っていた四角のところに行く。

「どうも、これ、言われてたパンです」修造は店で作ってきたパンの入った箱を渡した。

「ありがとうございます。シェフ、お疲れ様でした。相変わらずご活躍ですね。楽屋へ案内しますので時間までお待ちください」

2人は6畳の部屋に通された。

台本を渡されてしばらくそれを見ていたが「こんな、人の考えた言葉を言わなくちゃいけないのかよ」と修造は文句を言った。

「そう言うものじゃないですか?」

「そうかなあ」

自分で話すのも億劫なのにさらに覚えるなんてできるのか、、?

こんなもの無視して答えてやろう。そう思って修造は台本を裏返して置き、ゴロンと畳の上に横になった。

そこに女優の桐谷美月が挨拶に来た。

「わあ!桐谷さんだあ。ご無沙汰してまーす」

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」桐谷が嬉しそうにしている江川に笑顔を向けた。

修造も起き上がり「どうも」と言う。

それをじっと見つめていた桐谷は「シェフ、この度はおめでとうございます。またお会いできてとっても嬉しいわ」と手入れの行き届いた細い指の柔らかな手で修造の無骨なゴツゴツした手を上と下から包んだ。

 

 

「ではまた後で」

 

立ち去った桐谷を見送った江川は「桐谷さんに手を握られてましたね!律子さんに言ってやろ」と小学生みたいな事を言ってからかってきた。

「うわー!それだけはやめてくれ」修造はズザーっ!と滑り込んで江川の足を掴んで懇願した。

「じゃあ収録で本気出して下さいね、笑顔を忘れないでくださいよぅ」

「はいはいわかりました」

修造はそのまま顔を伏せて言った。

 

ーーーー

 

修造と江川はユニフォームに着替え、スタッフに連れられてスタジオに入った。

台本は読んでないが江川に言われた通り真面目な気持ちで行くつもりだ

美月は優雅な感じで椅子に座ってディレクターの話を聞いていたがユニフォームに着替えた修造が入ってきた瞬間に釘付けになっていた。

 

 

ウフフ

修造シェフ

やっぱり素敵

世界一の男だわ

 

 

修造達はマイクをつけて言われたところに座った。

収録が始まり、司会のアナウンサー埴原亮介(はにはらりょうすけ)が挨拶した。

 

 

「こんばんは、司会の埴原亮介です。そして女優の桐谷美月さん、パン好き代表の小手川パン粉さん、アクション俳優のジェイソン牧さんです」と修造と江川の座っている前の3人を指した。

「さて、テレビをご覧の皆さんはパンの世界大会があるのをご存知でしょうか」

小手川が「知ってますぅ〜フランスで開催されたんですよね、各国の強豪達がパンでしのぎを削るんです」

すると埴原が「そう、実は今日のお客様はその大会に出られたお二人なんです!パン職人の田所修造さんと江川卓也さんです」と手のひらをさっと2人に向けた。

テレビではそこで世界大会の場面が流れ、修造達の作品が映し出される。

見ている方は「へぇー!パンの世界大会ってのがあるんだねぇ」なんて言ってる人もいるかもしれない。

「田所シェフ、助手の江川さん、優勝おめでとうございます」

「どうも」

お二人はパンロンドって言うパン屋さんで働いてるそうなんですが、そこで練習しながら大会をめざされたんですか?」

自分達はパンロンドの店主とベッカライホルツの大木コーチの所を行き来して大会のパンについて教わりました。本当にありがたかったです。随分と良くして頂きました」

「そうなんですね、その時は江川さんもご一緒に練習に行かれたのですか?」

「はい、僕始めは何も出来なかったけど、コーチと修造さんに教えてもらって選考会でも助手に選んでもらえて大会に出る事が出来ました」

「田所シェフは大会に向けてさぞ努力をされたんでしょうね」と桐谷がコメントした。

「入社当時は右も左もわからなかったんですが、途中からパン作りに夢中になって、ドイツに5年間修行に行きました。そのあとは大会に向けてまた夢中になっちゃって」

「それだけ打ち込んだから今のシェフがあるんですね」

「俺、すぐ意地になっちゃうんです」

それが追い求めることになって結果的にトップを目指すんでしょうね」埴原がまとめた。

次に小手川が江川に聞いた。

「江川さんはどうしてこの業界に入ったんですかあ?」

「僕は修造さんを雑誌で見て、なんだか前から知ってる気がして、気になってパンロンドにきました。そして修造さんに面接して貰ったんです」

そのあと江川は修造のやった段ボールを使って3種類の温度帯を見抜く風変わりな面接の事を面白おかしく話した。

「段ボールを何も知らされずに3分で仕分けるんですね?変わった面接ですねえ」

「はい焦りましたぁ〜。始め何も分からなかったけど持って運んでるうちにあ!これだ!ってわかったんです。最後の10秒なんて大急ぎでしたあ〜」

皆アハハと笑って盛り上がった所で試食タイムに入る。

「これは?なんてキラキラしたパンなんでしょう」

これはチェリーのシロップ煮を使ったバイカラークロワッサンです生地を細長く切り半分に折って真ん中に切り込みを細かく入れていく。それを花のように巻いて先を菊の花弁のようにカットするんです。それとは別に、赤い生地でステンシルを施した小箱を作り花を中に入れて焼く。花弁の先が焦げないように上に途中から厚紙をのせて気をつけて焼いて、焼成後江川がキルシュワッサー使用のシロップを塗ったものです」

「まあ、このパンだけでもそんなに手数が多いんですね。8時間で全て作るなんて凄いわ」と桐谷が感嘆の声をあげた。

 

 

「さて、では3人に食べて貰いましょう」三人の前にパンが並べられた。

「見た事ないわあ。色味が綺麗ですね」

「菊のイメージが強く出ていますね、シェフ」

「はい、自国のイメージを出す為に菊の花びらの形を考えるのに苦労しましたが、なるべく細かくカットする事で実現できました」

「テクニックなんですね」

「パリパリだぁ〜」

「チェリーの風味がしますね。初めて食べたなあ。美味しいです」

「ありがとうございます」

「それともう一種類パンを作ってきて下さいました」修造はみんなに人型の大きめのパンを配った。

「シェフ、これはどの様なパンですか?人の形のパンですね?パイプを持ってますね」ジェイソンが珍しそうに抱えて言った。

 

 

「これってヴェックマンですよね?ドイツ近辺で作られてる冬のパン」とパン好きの小手川が大喜びで言った。

「こちらは自分がドイツにいた時の店で11月頃になると並ぶパンでヴェックマンと言います。Weckenヴェッケンが小麦粉を使った白いパンなんかの事で、Mannはそのまま人とか男とかって意味です」

「どこから食べたら良いか迷いますね」桐谷が困った様に言った。

「人の形だから確かにそうですね、甘めの菓子パンみたいな味なので気軽に食べて貰ったら大丈夫ですよ」

みんな急に現れた人型のパンに盛り上がった。

試食中に埴原が質問した。

「シェフの世界大会での思いと、これからの展望をお聞かせ下さい」

自分はずっと自分のイメージした通りのパン作りをできるようにしてきたし、それを追い求めてきました。自分はパン作りに対してすごく我儘だと思っています。出来るだけ全力を出したい。今回もそれが実現したのは助手である江川のお陰です。微に入り細に入り手助けしてくれました。これからも自分と、自分の周りの人達のために1日1日を大切にパンを作って行きたい」

それを聞いた江川の顔がパッと赤らんで涙が溢れた。

カメラが江川の瞳を大映しにする。

 

 

「僕実家からパンロンドに来て良かったです。あの頃と今の僕とは全然違うぐらいパンの事を教えて貰ったし、僕も大切にパン作りをしていきたいです。修造さんと僕とは何度となく自分で最後の最後に自分のパン作りを見てみたいって言ってきました。これがこれからずっと先の展望だと思っています」

「お二人は肝胆相照らす仲なんですね」

埴原も桐谷も目から涙が溢れた。

「このお二人なら最後まで極めて行って下さると思います」

「さて、シェフは何か得意な事がありますか?」という埴原の問いかけに

得意というのもなんですが小さな頃から高校卒業までずっと空手をやっていました。今は小学校でやってる道場に子供と一緒に通っています」

「そうなんですね、それでは修造シェフに自慢の空手を対決方式で見せて頂きましょう

「えっ?」

「シェフとジェイソンさんこちらへ」

ジェイソン牧が立ち上がって真ん中に立った。えっと驚く修造に「台本に書いてありましたよ?読んでなかったんでしょう!」とこっそり江川が言った。

 

ーーーー

 

その頃パンロンドでは

由梨は藤岡にパンの作り方について説明して貰っていた。

 

 

「パンは粉、水、塩、イーストが有ればできる」

「はい」由梨はメモしながら聞いていた。

「見てて」

藤岡はミキサーのボールに※小麦粉と水とモルトを入れた「モルトは発酵を促したり、生地のうまみを引き出してくれる」

低速でミキサーを5分ほど回して止める。

「こうすると水と小麦粉の中のタンパク質が結びついて※グルテンが形成される」

「グルテン、、」由梨はグルテンとメモに書いてから藤岡の顔を見た。

「そう、これをこうしてしばらく置いておくとだんだん緩んで伸びる様になる。20分置いておこう」

「はい」

「今由梨が見てるのはautolyse自己融解って言うんだよ。autoは自動、lyseは溶解。つまり自分で溶けてくって意味なんだ。小麦粉は水と出逢った瞬間に自己融解を始める」

「オートリーズ、、」

「オートリーズは小麦の持つ自分の酵素で糖を分解させて、そしてグルテンを形成して伸びる様になる、本捏ねの前準備の事なんだ」

「粉と水が出逢ったら(混ぜたら)グルテンができる」

「そう」

「不思議ですね、私、今までそんな事考えた事も無かったです。こうやってパンを作ってるんですね」

「俺なんて子供の頃うどんは『うどん粉』ってのがあって、それで作ってると思ってたよ。中力粉の事だって知らなかったんだ」藤岡はニッコリ笑った。

「ウフフ」

もしハッピーに音がするとしたらそれはどんな音だろう。

由梨からキュンという音が聞こえたらそれかも知れない。

 

 

20分ほど経って藤岡が生地の状態を見せた。

「ほら、生地が緩んだ感じになってるだろ?」

「はい、本当だ」さっき迄粉と水という別々の物だったのに今はちゃんと生地っぽくなり、その先はパンになっていくのが不思議だった。

藤岡は「塩とイーストも忘れずに」と言って低速でミキサーを回した。

 

ーーーー

 

一方NNテレビのスタジオでは

修造とジェイソン牧が並んで立っていた。

修造はユニフォームを脱いだ。

筋を伸ばし、ピョンピョンと飛んで首をコキコキいわせながらジェイソンを観察した。

それにしてもでかいな。体格もいい。流石アクション俳優。まさか戦うとか言わないだろうな。

すると2人の前に木の板を乗せた台が運ばれて来た。

「板割りか、、」

道着の人たちが来て、板を持って立った。

それでは順に割って頂きましょう!1枚目!まずはジェイソン牧さんから」

ジェイソンは突きでパン!といい音をさせて板を割った。そして修造を見た。

え?何今の視線。。と思いながら修造も板を割った。

何のことはない、修造もチラッとジェイソンを見た。なんだよ?向こうも見ている。

次に2人の空手着の男の人達がそれぞれ1枚ずつの板を持って立った。

「さあ連続割、今度は2枚の板を割って頂きましょう、さあどうぞ」

ジェイソンが腕と足で軽く割った。そのままならいいがまた修造を見た。

なんだ?できるのか?って感じか?

訳もないぞ!

修造も正拳突きをして、回し蹴りで板を割る。

「修造シェフ!カッコいいですね、どうですか?まだ出来ますか?」埴原の質問に2人とも当然だと言わんばかりに頷く。

3人の道着の男が少し離れた位置で一枚ずつ持って立った。ジェイソンは動きを大きくして1枚目を突きで、2枚目を蹴りで3枚目は修造より早く回し蹴りで割る。

 

 

修造も負けていられない!持ってる板を高い位置で持つ様に調節して突き、裏回し蹴り、踵落としで割った。

拍手喝采である。横に立って2人ともお互いをバチバチに見ている

「いやお二人共カッコいいですね、まだまだいけそうなので今度は5枚で」なんて埴原が言い出した。

江川はそばに置かれていた水を飲んで、座っている回転椅子をくるっくるっと左右に回しながら、空手対決をしている2人を見て、意地になってなにやってるんだろうと呆れていた。

もうすっかり飽きて、スタジオのセットを観察していた江川が再び修造を見た時は、両足で同時に割って反動でそのままくるっと一回転してシュタっと立ってる所だった。

「もう帰りましょうよ」

江川が小声で呟いた。

 

ーーーー

 

一方パンロンドでは由梨の幸せな時間はまだ続いていた。

「パン作りに大切なのは時間と温度なんだ」

「はい」

「さっきみたいに温度に気をつけて、時間をとってやったらパンは勝手に発酵していく」

捏ね上がった生地をケースに入れて、蓋をした。

「乾燥しない様に気をつけて」

由梨は注意深く作業を見ていた。

わざわざ教えてくれてるんだから忘れないようにしなくちゃ。

他にも生地の種類や種によってやり方が違うからおいおい教えていくよ」

「はい」

おいおいとは順を追って次々に

まだまだこの先があるんだわ。

なんだか毎回宝箱を開ける様な期待が由梨の中に煌めきだした。

 

ーーーー

 

収録後

修造はクタクタになって楽屋へ戻って行った。

「江川さん」

「あ!桐谷さん」

「お疲れ様。とても良い収録だったわね。私感動しちゃったわ」

「僕もです」

「ねぇ、今度何かあったら連絡くれない?」

桐谷は自分の連絡先を書いたメモを江川に渡した。

何かとは修造の収録が再びあった時とか?

「あ!そうだ!今度修造さんがお店を開いたらその時は来て下さいね」

「わかったわ。間近になったら教えてね」

「はい。新人の由梨ちゃんも入ってきたし、藤岡さんにもう少しライ麦パンの作り方を教えたらって修造さんは言ってました。もう間近まで迫っています」

「そうなの。楽しみにしてるわね」

「はい!」

 

「江川さーん」

次に食パンマンじゃなかった。。小手川パン粉が声をかけて来た。

「ねぇ、可愛いねその食パン。僕も被ってみていい?」

「勿論ですぅ〜」小手川は手に持っていた食パンの被り物を渡した」

「ねぇ、どう?似合う?どこで買えるの?これ。ぼくも欲しいなぁ」

 

 

「あ!ひとつあげましょうか?それ、私が作ったんですよ。家にまだあるんです」

「本当?嬉しい。ねぇパン粉ちゃんってパン屋さんをいっぱい巡ってるんでしょう?またうちにも来てよね」

「パンロンドなら何回も行ってますぅ〜記事を書いた事もあるんですよ」

「えっそうなの?また見てみるね。そうだ!今度修造さんがお店を開いたら来てよね。招待するね」

「えー!嬉しい。絶対声をかけて下さいね」

「うん」

 

ーーーー

 

後日

修造は生地をどんどん練って藤岡と杉本にどんどん分割して布をかけてラックに差していった。それが終わったらまた次の生地をという風に生地を渡して、2人は連続で分割して、そのあと順に成形して型の中に入れていった。大型の成形が終わってホイロという発酵の機械の中に入れたら、次は小物パンの分割、成形。

「ねえ、まだあるんですかあ?疲れるなあ」

「杉本、今日は早さに慣れて貰う練習をしてるから。生産性をあげるんだ。はい、これ丸めて真ん中に切り込みを入れて。ブロッチェンの成形が終わったら次は※ブレッツエルの成形だから」修造は量と速さに慣れる為に次々生地を練った。

勿論細かい計算済みで、表を見ながら綿密に仕込んでいく。

「あのな、杉本。今度から2人だけでやらなきゃいけない日もあるんだよ」藤岡に言われて杉本は奇声を上げた。

「ヒェ〜」

お店の方にいて、パンを包装していた風花と由梨に杉本の奇声が聞こえてきた「また馬鹿な声出してるわ」風花はグーを見せて杉本をじろっと睨んだ。

由梨はその様子を見て、風花さんって杉本さんに厳しいけど本当は凄く仲良いのよね、と思っていた。

「あのー、風花さん。。藤岡さんって彼女とかいるんですか?」

「えっ?」実は藤岡は私生活の事は何も話さないし、誰も何も知らない。「えーとお。バレンタインの時はここにくる時に沢山チョコを貰ってたわよ。昼間はお客さんに、帰りも待ち伏せした女子高生とかにね。歩いてるだけでチョコ貰えるなんて良いわね。もう誰が誰のチョコかわからないから龍樹も何個かおこぼれを貰ってたわ。プライドとかないのかしら」風花はちょっとだけ馬鹿にして笑った。

「藤岡さんね、攫(さら)われそうになった事もあったのよ」

えっ攫われる?」

「そう、配達先の人に気に入られてね。無事帰って来れて良かったわ」急に由梨は藤岡とグーンと距離が開いた気がした。

そういえばね、奥さんが藤岡さんは最近引っ越したって言ってたわよ」

その時お客さんがレジに並び出したので風花は店に行ってしまった

由梨はチラッと藤岡を見た。ブリーツェンの成形をしている。正直カッコいい。由梨は小さなため息をついた。

 

ーーーー

 

仕事終わり。

風花と杉本は一緒に帰っていた。

「ねぇ、藤岡さんって引っ越したんでしょう?奥さんに聞いたら1人暮らしって言ってたわ」

「そうなの?知らなかった」

毎日一緒に仕事してるのになんでよ」

だって向こうも何も言わないし、誰も何も聞かないし」

プライベートに首を突っ込まないって事なのかしら?」

そうかなー」

「あっ!あれ見て!」急に風花は小声で杉本に言った。本屋から出てきた藤岡が前を歩いている。

「ねえ、ついて行きましょうよ」

「え?なんで探偵ごっこ?」

だって声をかけてもはぐらかされるかもしれないじゃない」

そうかな〜」

 

 

2人は角を曲がって3丁目の方へ行く藤岡にこっそりついて行った

 

5回程角を曲がった時「あっ」藤岡は高級そうなマンションに入って行った。

公園と役所のある広い通りに面したエントランスはエレベーターホールまで距離があり、豪華で広い。警備員室もある。

「タ、タワマン」杉本も口をあんぐり開けて上を向き、何階建てか数え出した。だが下から見上げて数えると、何回数えても途中で何階まで数えたかわからなくなる。

「どの階なのかしら?」

「わかんない」

マンションの名前は東南エクスペリエンスグランデ「名前もいかついな」

 

次の日

杉本は一緒に組んで仕事してる藤岡の顔をじーっと見た。

なんだよ杉本」

「藤岡さんってお金持ちなんですね。タワマンに住んでるんでしょ?」

「え!なんで知ってんの?」

だって昨日歩いてたじゃないですかぁ」

「歩いてた、、なんだそれ。この事はここの奥さんしか知らないんだ。警備の厳しそうなところに引っ越したんだ。誰にも言うなよ」

それは無理です!」

「なんで」

「風花も一緒だったしぃ。由梨ちゃんにも言ってると思うしぃ」

藤岡は風花と由梨に向かって人差し指を口に当てて「しぃ〜」と言うジェスチャーをした。

それを見た風花もしーっというジェスチャーをして見せた。

「やっぱり攫われそうになったから警戒してるのね。イケメンって大変ね」

「はい、大変そうです」

 

夕方

 

早番だった職人達が帰った後、由梨と藤岡は工場の掃除をしていた。親方は店側の台の上で明日の仕込みの計算をしていた。

「あの」

工場の奥の機械を拭きながら由梨は藤岡に話しかけた。「何?由梨」

藤岡さんはあの時どうしてベッカライウンタービルクに来ていたんですか?」

藤岡が由梨に出会ったのは由梨の実家の着物屋花装の近くのパン屋に立ち寄った帰り道だったが、そこから東南駅は随分離れている。

「由梨、俺は誰かの答えて欲しいように答えたり、理想の答えを探して言う様にいつもしてしまうんだ。人によっては俺の事を出来過ぎくんと揶揄する者もいる」

「え?」どう言う意味なのかしら。由梨は注意深く聞いていた。

その時親方が振り向いて「もう時間だから片付けて帰りなよ」と声をかけた。

「わかりました親方」

藤岡はしばらく考えて「ま、後で移動して話そうか」と言った。

 

その後

2人は駅前のオムライスの美味しい店に来ていた。

茶色が基調の店内のテーブルには赤と白のチェックのテーブルクロスが敷かれていて、小瓶に花が一輪さしてある。

シンプルでタマゴはパリッとしたタイプで、赤いソースのかかったオムライスの端をスプーンで掬いながら藤岡が言った。

「美味いんだよここのオムライス」

「本当、美味しいです」

バターの香りが一口毎にふわっと立ち込める。

途中まで食べかけて、藤岡は話しだした。

「今こう言うべきだという場面で理想の答えを言っちまうんだ。でも言っちゃいけない時もあったんだなと後悔する事もある」

急に始まったさっきの話の続きを聞きながら、藤岡の顔をじっと見ていた。

「高校を出てすぐ調理師学校に入ったんだ。その後レストランに就職した。6人ぐらい従業員がいて、3つ歳上の人について仕事を教えて貰った」

「はい」

と言いながらその先輩が女性なのかどうか気になる。

 

 

「優しくてしっかり者でね、なんでも教えて貰っていて、俺も持ち前の当たり障りのない受け答えで上手くやっていたんだ」

由梨は目を見てうんうんとうなづいた。丁度今の由梨より少し年上の頃の藤岡の話だ。

飲食は離職率の多い業界だから同僚もちょこちょこ変わって安定感は無かった。その日その日仕事をこなすのに精一杯でね。あの頃と比べるとパンロンドの親方や修造さん、他の先輩達は仕事もできるし頼りになるよ。でもそのレストランはそんな環境じゃなくてね」

「大変だったんですね。頼れるのはその先輩だけだったんですか?

「そう」

藤岡は言葉を詰まらせた。

「そうなんだ、お互いに力を合わせて必死で、でもある日その人は心が折れてしまったんだ」

 

『藤岡君、私転職するの。パン屋さんで職人を探してるところがあるから』

 

そう言われて

その場で怒ってもよかった。

俺はどうなるんですか

あなたがいないなんて

相談も無しに勝手に他所に行くんですか。

そう言えば良かった。

でも俺の口から出たのは

元気で

頑張って下さい

活躍を祈っています。

そんなどうでもいい

当たり障りのない言葉だった

あの人は俺に

ごめんね

と言っていた。

心の疲れたあの人に

行かないで下さい

と言えば良かったのかどうか

パン職人になると言って誰にも行き先を告げずに辞めてしまった。その後あちこちのパン屋を探して回った。その時始めたんだ。動画を撮ってそれをアップするのを。お陰で登録者数も増えて広告のお陰で良いところに住めるようになったよ」

自虐的に笑う藤岡の話をただ黙って聞くことしかできない。

「俺、初めて人に言ったよこの事を。なんだかずっと辛かったけど、気が楽になったかも」

藤岡さんも初めて会った時私の話を聞いてくれた。そして一緒に解決して貰ったわ。できれば私も手助けしたい。

「あの時俺が言ったんだったね。話せば楽になれるんじゃない?って」

時間がゆっくり溶かしてくれる事もある。

こういうのを自己融解って言うのかな。

そう思いながら残りのオムライスを黙って食べた。

「ほら、由梨」藤岡はほっぺをトントンと指さした。

由梨はほっぺに少しトマトソースがついていた。

「あ」

顔を赤らめて由梨はソースを拭き取ったのを見て藤岡はニッコリ笑った。

食後コーヒーを飲みながら、黙っていた由梨が「あの、私藤岡さんと出会ったのはとても意味があるんじゃないかと思って、、私達縁があると思ったんです。それで電車まで追いかけて走って来ました」

「あの時」

「はい」

俺はちゃんと気がついている。

何故由梨が追いかけて来たのかを。

ただこういうのって人の言って欲しい事を言うわけにいかない場合もあるんだって今はちゃんとわかってる。

 

 

藤岡はマンションに帰って薄暗い部屋で1人考えていた。

まだ消化しきれてないんだ。

ずっと胃もたれを起こしてて

俺にはもう少し時間が必要なんだ。

 

ーーーー

 

次の日の夕方頃

お店はいつも以上に大忙しだった。

修造達は特訓の為に大量にパンを作ったがそれももう無くなりそうだった。

由梨は江川にあまり生地で丸めの説明をして貰っていた。「ほら、こうして手を猫さんの形にしてね。クルクルって丸めてね」

 

 

 

それを聞いていた藤岡が「幼稚園児か」と突っ込んでいた。

「だってわかりやすいと思って」テヘヘと笑いながら江川がそれに返事していた。

「そうだ由梨ちゃん、昨日僕達の映ってたテレビ見た?9時からやってたでしょ?」

「はい、見ました。途中すごく感動する所がありましたね。司会の人とかみんな泣いてて、私も泣いちゃいました」

「あの後ね、空手の板割りってのがあったんだけどね、全部カットになっててね」江川は2人共あんなに真剣にやってたのにと思うと笑いが込み上げた。

「それで最後の方ユニフォームも脱いでたんですね」

「そうそう、ウフフ」

それを遠くで聞きながら修造は「あんなにムキになってて恥ずかしいよ。カットになって良かった。だいたいパンと関係ないんだし」

「見たかったですよ。修造さんの蹴りや突きを」と藤岡に言われて修造は顔を赤らめながら言った「さ!台を片付けて、みんなでヴェックマンを作るよ。そのあとシュトレンとヘクセンハウスな!」

「はーい」

去年は親方と2人でつくったヘクセンハウスだったが、今年はみんなで作れるようにしていた。パーツを作って組み立てるお菓子の家だ。

パンロンドでの楽しいひと時も後わずか。

 

おわり

 

※オートリーズの時にイーストと塩を入れる店もあれば、塩は後で入れる(後塩法)店もある。

※グルテン パンに粘り気と弾力を与える。アミノ酸からなるタンパク質。水と小麦が出会ってグリアジンとグルテニンが結びついてパンができる。不思議。今回この結びつきと恋をかけてみました。

※ Brezelnブリーツェン=プレッツェルの事。腕を組んだ様な形をしていて、塩味、バター味、チーズ味など愛されドイツパンの事。ラヴゲン液をかけて焼くので独特の食感になる。めちゃうま。

※ヴェックマン Weckmann 地域によって呼び方も形も様々。11月中旬からクリスマスまで見かける。

 

 

桐谷美月との出会いはこちら 進め!パン王座決定戦!

https://note.com/gloire/n/n394ace24aa33 

 

江川君のはじめての面接はこちら 初めての面接

https://note.com/gloire/n/n313e7bee5f33?magazine_key=m0eff88870636

 

由梨と藤岡の出会いはこちら Emergence of butterfly

http://www.gloire.biz/all/5498


2022年11月05日(土)

パンの小説の一覧を作りました。

 

パンの小説の一覧を作りました。

 

ブログの表示が5つのお話までしか掲示されないので一覧をこちらに作りました。

よろしければ下にある一覧から好きな話を探して見てくださいね。

このお話はフイクションです。

江川と修造シリーズは修造が修行先のドイツから帰ってきて江川をパンロンドで面接したところから始まります。
引きこもりで不登校だった江川は修造の弟子っこになり、やがて世界大会の助手を経てナイスなパン職人になっていきます。

イラスト付きでわかりやすく、電車の中ですぐ読める感じになっていますのでぜひお楽しみ下さい。
どんどん更新していくのでたまに覗いて見てくださいね。

note始めました。3部の途中の江川君がパンロンドに面接に来た所から始まります。少しずつ読みたい方はこちら

パン職人の修造 noteマガジン1話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/m0eff88870636

パン職人の修造 noteマガジン56話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/m7dbc331f59d6

パン職人の修造 noteマガジン101話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/mc296482c0c46

お話の最後にあるハートマークを押して頂くと励みになります。

 

イラストだけ見る方はこちら

https://www.instagram.com/panyanosyousetu/

 

 

このブログでの新作↓

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーベンアンドブロートができるまではこちら

http://www.gloire.biz/all/5664

開店準備は楽じゃない修造、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ some futureはこちら

http://www.gloire.biz/all/5619

独立の準備を始めた修造は、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ   dough is alive

テレビに出た修造と江川でしたが、、、

http://gloire.biz/all/5565

 

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

Emergence of butterfly はこちら

http://www.gloire.biz/all/5498

休日にパン屋めぐりをしていた藤岡君が出会った由梨は、、、

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

Awards ceremonyはこちら 

http://www.gloire.biz/all/5465

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

stairway to gloryはこちら

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世界大会に出場する江川と修造は、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

surprise giftはこちら

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フランスに到着。江川が思いがげず受け取った贈り物とは、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

江川 Preparation for departureはこちら

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とうとうフランスに旅立つ時が来た!
準備に忙しい江川と修造の前にやり手の営業マンが現れた。。

 

 

パンの職人の修造 江川と修造シリーズ

Annoying People はこちら

http://www.gloire.biz/all/5211

修造!藤岡君がおこってるよ?

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

One after another 江川はこちら

gloire.biz/all/5158

新たに練習を始める江川だったが、、

 

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

A fulfilling day 修造はこちら

gloire.biz/all/5105

大地が生まれた!毎日ハッピーな修造

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 後編はこちら

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杉本に試験を受けさせようとする風花だったが、、、

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 前編はこちら

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いつもぼーっとしているタイプの杉本の特技を発見したパンロンドの職人達は

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ バゲットジャンキーはこちら

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あのメモを渡してきた男の正体は?

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ broken knittingはこちら

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とうとう若手コンテストに挑んだ江川と鷲羽でしたが、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Mountain Viewはこちら

http://www.gloire.biz/all/4845

江川と修造は2人で荷物を積んで選考会に出発しました。

そこには、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ honeycomb structureはこちら

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ホルツにてとうとう飾りパンの練習が始まりましたが、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Prepared for the roseはこちら
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鷲羽はパンロンドに勉強の為に行きます。そこでつい、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ   イーグルフェザーはこちら

http://www.gloire.biz/all/4720

鷲羽と江川はベークウエルのヘルプに行きますがそこでは、、、

 

パンロンドの職人さんのバレンタイン Happy Valentineはこちら

http://www.gloire.biz/all/4753

パンロンドの職人さん達のバレンタインはどんなのでしょうか?

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ スケアリーキングはこちら

http://www.gloire.biz/all/4675

いつも自信満々な修造が唯一怖いもの、それは、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Sourdough Scoring 江川はこちら

http://www.gloire.biz/all/4634

選考会への修業を重ねる江川と修造。江川にまたしても試練が訪れる。

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ ジャストクリスマスはこちら

http://www.gloire.biz/all/4588

クリスマスはパンロンドに優しい風を吹かせました。

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ お父さんはパン職人 はこちら

http://www.gloire.biz/all/4548

修造と緑はとっても仲良し。だけど近所の人はお父さんの事を、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ  六本の紐  braided practice 江川はこちら

http://www.gloire.biz/all/4477

修造と一緒にホルツで修業を始めた江川を待ち受けていた者とは、、、

 

 

江川と修造シリーズ フォーチュンクッキーラブ 杉本Heart thiefはこちら

gloire.biz/all/4415

やっと職場に慣れてきた杉本。一緒に仕事している店員の風花に危険が迫る!その時杉本は、、、

 

 

江川と修造シリーズ 背の高い挑戦者 江川 Flapping to the futureはこちら

gloire.biz/all/4365

修造と江川の務めるパン屋パンロンドにNNテレビがやって来た!

みんな頑張って!その時修造は、、、

 

 

ハートフル短編小説 アルバイトの咲希ちゃんはこちら

gloire.biz/all/3705

東南駅と学校の間にあるパン屋のパンロンドでアルバイトをはじめた高校2年の咲希ちゃんでしたが、、、

 

 

江川と修造シリーズ催事だよ!全員集合!江川Small progressはこちら

gloire.biz/all/4249

このお話は進め!パン王座決定戦!の続きです。催事を通じて少しずつ成長する若手の職人達のお話です。パンロンドにイケメンの仲間がやってきましたが実は、、、

 

 

江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!後編はこちら

gloire.biz/all/4129

パン王座決定戦!前編の続きです。 修造はNNテレビのパン王座決定戦で強敵のシェフと戦う事になりましたが。。

 

 

江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!前編はこちら

gloire.biz/all/4009

新人の杉本君の続きのお話です。親方が修造をパン王座決定戦に出てくれと言ってきました。その時修造は、、

 

 

江川と修造シリーズ 新人の杉本君Baker’s fightはこちら

gloire.biz/all/4056

江川To be smartの続きのお話です。パンロンドに新人の杉本君が入ってきましたが、、、

 

 

江川と修造シリーズ 江川To be smart はこちら

gloire.biz/all/3940

江川が15年前パンロンドの面接で修造と出会った時のお話です。

修造は一風変わった面接をします。。

 

 

製パンアンドロイドのリューべm3はこちら

gloire.biz/all/3877

30年後の未来、アンドロイドはとうとうパンも作ってくれる様になりました。
利佳はアンドロイドと仕事をする決心をします、その理由とは。

 

 

パン職人の修造第1部 青春編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3032

パンロンドに就職した空手少年の修造は運命の人に出逢います。そして、、

 

 

パン職人の修造第2部 ドイツ編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3063

修造はパンの技術を得るためにドイツに向かいますが、、、

 

 

パン職人の修造第3部 世界大会編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3065

江川と出会った修造は2人で世界大会を目指します。

 

 

パン職人の修造第4部 山の上のパン屋編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3073

律子と2人で念願のパン屋を開きますが、、

 

 

パン職人の修造第5部 コーチ編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3088

江川の為に世界大会のコーチを引き受けますが、、

 

 

パン職人の修造第6部 再び世界大会編前半はこちら

http://www.gloire.biz/all/3100

世界大会の為にコーチとして江川や緑と色々と作戦を練りますが、、

 

 

サイドストーリー江川と修造シリーズ ペンショングロゼイユはこちら

http://www.gloire.biz/all/3748

世界大会前編の始めに東北のお祭りに行った後のサイドストーリーです。

世界大会のアイデアを練る為に江川と東北に行った帰り道、泊まったペンションで修造が会った夫婦は、、、

こちら

 

パン職人の修造第6部 再び世界大会編後編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3596

世界大会が終わった後修造は、、

この後もまだまだお話は続きます。

このお話を書いたきっかけ。

昔々グロワールの近所にパンマイスターのお店があって、うちの先代が「マイスターのお店があるから行ってみ。」と言いました。
私はその時はマイスターって聞いたことあるけど何なのか知りませんでした。

お店に入るとご夫婦がお二人で経営されていて、ショーケースがありました。
当時(今も)無知だった私はどれがドイツパンかもわかりませんでしたが、記憶では日本の菓子パンもあった様に思います。

入り口の横に燦然と輝くマイスターの証が飾ってありました。
今はもうぼやけた思い出ですが、今にして思えばなんて勿体無い事をしたのでしょう。
もっと行っとけば良かった!
お店はいつのまにか無くなっていました。

推測ですが戦時中にドイツに渡り紆余曲折あってマイスターの資格を取り日本に戻ってこられたのではないかと。
そして日本にドイツのパンを広めるはずだったのに、当時はやはり菓子パンや食パンが主流で、しかも「白くてフワフワ」というワードがもっとも信頼されていた頃です。

推測ですが、色々悩まれたのではないかと思っています。
あぁ〜今やったらパン好きの人達に紹介して記事を書いて貰うのに。
そしてそれを読ませて貰うのに!

当時はSNSも無かったし、私も価値が分からずにいたと思うと口惜しいです

????

そんな気持ちがくすぶっていてマイスターについて色々調べ、今では価値のある存在って十分わかっております。

修行は長く、様々なお辛い事、そして楽しいこともあったと思います。

パン職人の修造第2部ドイツ編にはそんな思いが込められています。

世界大会については、審査、選考会、世界大会の順に勝ち進んでいくのですが、調べていくにつれ、色んな選手の方が色々な事を調べて作ってらっしゃるのがよくわかります。
時間内にタルティーヌやクロワッサン、バゲット、スペシャリテ、芸術作品などをを作らなければいけません。
とても技術を要し、過酷なものと推測します。

大会で修造が作ったパンは調べあげた末、誰とも被らないようなものを作ったつもりですがもしもモチーフが被った場合はご容赦下さい。
その他の一般でも販売可能なパンに関してはこんなに沢山の種類やパンがあるんだとわかって貰えるようになるべく色んなパンを紹介することもあるかもしれません。

世界大会には選手と助手(コミ)の2人が出ます。
そして会場ではブースの外からコーチが色々指導したりします。
素晴らしいコーチと助手と選手の熱い思いが燦然と輝くのです。

今後も修造の話は続きます。

応援お願いします。

ここに出てくるお話はフィクションです。

実在する人物、団体とは一切関係ありません。

パンと愛の小説

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2022年08月10日(水)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ江川 Preparation for departure

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 江川 Preparation for departure

 

 

.

 

 

「もうすぐフランスだ」

 

夜の12時。

東南マンションの3階の自室で

江川は窓際のベッドに横になりながら

暗がりのカレンダーを見て呟いた。

 

 

そう、もうすぐ世界大会だ。

空手のじゃない。

パンの世界大会だ。

「色々あったなこれまで」

修造と出会ってからのあんな事やこんな事。

緊張でギラギラする。

でもまた倒れたらいけないから早く寝なくちゃ。

もうパンロンドはしばらくお休みして修造と2人で明日からホルツで特訓だ。

修造さんは凄いな。

全てを理解していてあんなに早く動けて。。

 

あ、早く寝なくちゃ。

 

修造さんも寝る前に音楽を聴くと良いって言ってたな。

リラックス音楽を選んでイヤホンで聴いていた。

でもまた考えてしまう。

他の国の人達はどんなパンを作るのかしら。

きっと凄いんだろうな。

そしてまたカレンダーを見た。

「もうすぐフランスだ」

 

----

 

朝、修造と待ち合わせして電車に乗った。

もう何度となくこの電車に乗ってパンの修行に行き、そして帰る。

毎回困難な課題にぶち当たり、解決してまた一段階段を登る。

そうやって随分登った気がする。なのにまた次の段がある。

「今日は一から通しでやってみよう」

「はい」

「まあ理解を深めるって感じで」

修造はプレッシャーを与えないように軽そうに言った。

江川の目の下にクマができているからだ。

これから二人三脚でと言いたいところだが、シェフ側から見たら助手は同じ力では決して無い。

アルチザン(職人)

ブーランジェ(パン職人)

そしてその下で働く者はコミ(助手)と呼ばれる。

ちなみに「職人の・職人的な」はアルチザナルだ。

ブーランジェとコミは力のあり方が違う、だが心を合わせて頂上を目指すのだから同じ方を向いて力を合わせなければならない。

 

----

 

ベッカライホルツの別室で作業中

「江川、もうパスポートはとった?」

「はい、持ってます」

「当日忘れ物が無いようにしないとな〜取りに帰れないし」

「めちゃくちゃチェックします」

「1日目は鷲羽達のとこに泊まるから」

「えっ?」

「今園部と鷲羽は学校の近くに2人で住んでるんだ。そこで受け取った※種をリフレッシュしなきゃ。それと向こうで仕入れもして当日鷲羽に届けてもらうんだ」

「もうそんな話ができてるんですね」

「うん」

「2泊目は大会の会場の近くに泊まる。会場でパンデコレの土台とかパーツを作らなくちゃ」

大会の後半、パンを作り終えたらすぐにパンデコレの組み立てが始まる。それまでにパーツは完璧に揃えないといけない。

そこで上手く行くかどうかまだわからない。初めて行くところで場所も設備も想像もつかない。

2人ともそこが心配だった。

「ま、条件は皆同じなんだし」

不安を打ち消すには練習しかない。

修造はパンデコレの各パーツの生地を自分の思った通りに平らに凹凸のないように焼成するよう調節した。

例えば葉っぱのパーツ一つにしても本体に添わせたいならそんな風に、立てたいならそんな風に作らなければならない。

本体に生地をくっ付けるのって凄く難しい。

やはり前回のように※相欠きのパーツ同士を継ぎ手を作ってお互いの凹凸を嵌め込むやり方と、本達に仕掛けを作って※ほぞ継ぎのパーツを刺していくやり方を組み合わせた方法がいいだろう。

 

 

大木と相談しながら時間の許す限り何度も練習した。

「縦のものに縦のものを挿すのだから継ぎ手はいるな」

「ですね」

江川は色とりどりの生地を手早く順番を間違えないようにする練習をしていた。

そして数日後

2人は動きを合わせ、やがてピッタリと欠き継ぎの様に息が合い、完成度が高まってきたと思う瞬間が増えた。

 

----

 

翌日ホルツに来た2人に、大木が「紹介するよ」と言って何人かを連れて来た。

「修造シェフ!ご無沙汰しています.いや~またお会いできて嬉しいです」紺色のスーツを着た男が白い歯を見せて声をかけてきた。

「あ」見覚えがある。

「基嶋機械の後藤です。今日は社長の基嶋義信を紹介させて頂きます」

「確か、後藤さんとは選考会の会場でお会いしましたよね」

「覚えていて頂けましたか!社長!こちらが田所修造シェフです」

「田所シェフ、初めまして基嶋です」

「どうも」

「修造、基嶋機械さんは今回の大会の後押しをして下さるからな」大木が基嶋機械がスポンサーになっていることを伝えた。

「ありがとうございます」

「担当は後藤ですので困った事があったらお伝え下さい」基嶋は後藤を前に出した。

「シェフ、これからよろしくお願い致します」

「はい」

そして次のブラウンのスーツ姿の男が名刺を出してきた。

「私、興善フーズの営業主任の青木 康裕と申します。担当の五十嵐良子です」

といってもう一人の女性社員を手で指した。

「五十嵐です。ライ麦の試食をして頂いた者です」

「その節はどうも」

修造は知らないが、青木は選考会で修造が壊したパネルの後始末をしてくれた男だった。

「必要なものは五十嵐にお知らせ下さい」

「私が食材を手配致します」

「ありがとうございます」修造は頭をちょっと下げた。

他にも何社かの営業の者が挨拶に来ていた。

「そしてこれ」大木が大会のユニフオームを修造と江川に渡してきた。

「フランスから送られてきたんだよ」

 

 

江川は早速ユニフオームを広げて大喜びだった。

「わあ〜!かっこいい」

「さあ、では行きましょうか」後藤が白い歯を見せて張り切って言った。

「え?どこへ?」

「写真撮影です」

いくつかの企業がスポンサーとなることで資金面で選手も助かるし、企業側も認知の拡大、自社の製品の知名度の向上やイメージアップができる。企業共有の写真を撮りに行く事になった。

実際勤め人の選手には資金面の心配までしていては集中力が削げる。

 

「私がお連れします」と言って、後藤は修造と江川、大木を車に乗せてスタジオに向かっていた。

私が大会が終わってもお付き合いしますのでなんでも相談して下さいね」

「だってさ、修造!大船に乗った気でいろよ」と大木が言った。

急接近してきた後藤になんだか背中がこそばゆいが、やはり助かる。世間知らずの修造は直球を投げた「見返りに何かするんですか?」

大木が「ほら、あるだろ?スポーツ選手の肩や腕のところに企業名が付けてあるだろ?あんな感じだよ」と、また振り向いて言った。

「あぁ!はい!あれ!」

カタログや業界新聞のうちのスペースにシェフとうちの機械を載せるんです」何も知らないのでこちらのペースに乗せやすいかもしれない。

「それと、次の展示会ではうちのブースでデモンストレーションをして下さいね」

「あのオーブンやらが沢山並んでる所で?」

「はい、実際に基嶋のミキサーやドウコンを使ってパン作りをして頂きます

「後藤君、そういうのは大会が終わってからにしてね」と大木に釘を刺されたので笑って誤魔化した。

「凄い、僕達の知らない別世界」と、後部座席で黙って聞いていた江川が大人の世界を垣間見てちょっと心躍った。

スタジオに着くと早速さっきの大会指定のユニフォームに着替え、3人で並んだ。

「色んなポーズするんですか?こう?」

などと江川が張り切っているが修造は内心嫌がっていた。

本当は写真撮影は苦手だが仕方ない。。

黙って突っ立っている修造にカメラマンが穏やかに声をかけた。

「右の後ろの方、もう少し隣の方に寄って下さい。はい!笑って下さーい」

笑ってと言われてどんな笑い方をすれば良いんだろう?

何度も撮り直すので大木が振り向いて修造の顔を見た。

「おい、笑えって言われてるだろ?」

「はあ」

口角を上げてみた。

 

 

ぎこちな過ぎる。

「修造さん、こうですよ」

江川がにっこりとして見せた。

「えーと」

強い目力に更に力が入り、口の両端を上げた。

こわ

カメラマンが困っていたので江川が「そうだ!大地ちゃんを思い出したら?」とアドバイスしてきた。

あの可愛い大地を。。

修造の顔が急に綻んだのでやっと良いのが撮れた。

「江川ナイスアシスト」と大木がほっとして言った。

「次はお一人ずつ撮りますね」

「えっまだあるの?」

「良い写真が撮れないとずっと撮り直しになりますよ」

さっさと撮り終えた江川が言った。

「う、うん」

 

「修造さんもう少し笑って下さい」こういう事の苦手な修造は何度もカメラマンに言われていた。

「もう少し斜に構えてカッコいいポーズも撮りましょう」

「え」

もう言われるがままに指定の格好をするしか早くこの場から逃れるすべは無い。

「腕を組んで」

「もっと笑って」

 

色んなポーズを撮るカメラマンとなすがままの修造を見ながら後藤は考えていた。

この人優勝してもしなくても結局店を持つんだろうな。今からうちのいい中古を探しておこう。まだそんなに使ってないものを会社の者が何処かで見かけたら俺に言う様に言っておこう。どのぐらいの規模なのかな。一等地に狭い店を構えるのか、郊外に広い店を持つのか。やっぱパンロンドを拠点に考えるのかな。今ガツガツ聞くと大木シェフに叱られるな。それにしても随分この2人を可愛がってるな。息子みたいにしてる。

 

それと

江川を見た。

こちらの助手の少年もそのうち名前が知れ渡っていくだろう。デジタルタトゥーの意味合いとは逆に名誉なこともネットにあげたら中々消えないもんだ。

今月はこの2人の特集をうちの取材として業界新聞やホームページに載せる予定だし。

 

後藤はにっこり笑って「江川さん、手伝います」と声をかけ、受け取った新品のユニフォームをさっき開いた筋目の通りに畳んで袋に入れ直した。

「ありがとう。ねぇ後藤さんの仕事って何する人なの?」

「私の会社はパンやケーキ、ピザを作るのに必要な機械を作っているんです。パンロンドにも窯やホイロ、ドゥコン、ミキサー、パイローラー、※モルダーがあるでしょう?」

「はい!あります!」

私の仕事はそれらの新製品を皆さんに広めて買っていただく事なんです。今回江川さんともお知り合いになれたので、今後何かあったら基嶋機械の後藤をよろしくお願いします」

「僕がいつか自分でパンの機械を買う日がくるのかしら。。想像もできないです」

まだ貯金もないのに大それた買い物は考えも及ばない。

なので修造さんがもしもパン屋さんをやったら僕もついて行くつもりです」

「そうなんですね、私とはずっと仲良くして下さいね」後藤は笑顔を見せた。

「ところでね江川さん」

「なあに?」

「修造さんは何か趣味とかあるんですか?休みの日は何をされてるんです?」

「修造さんはパンロンドに来るまで空手をやっていたそうですよ。休みの日は家族と過ごしてるんだ、結束が固くてその時は僕は近づけないんだ」

「そんなに寂しそうに言わないで。修造さんのお店でまっさらの綺麗な設備に囲まれて仕事している所を想像してみて下さい」ちょっと新品案件も刷り込んでみる。

「それ凄くいいですね。楽しそう」なんだかアミューズメントパークみたいな感じがする。

「希望が湧いてきたでしょう」

「はい」江川の表情がぱっと明るくなった。

「これ見て下さい、うちのピカピカのオーブンです」

後藤はカタログを見せながら、江川にこれまでのパンの活動について聞いた。

 

その後

やっと修造の撮影が終わった。

着替えを手伝ってやりながら後藤は頭の中の算盤が止まらない。選考会の時、修造のパンを見てグンとテンションが上がったままなのだ

後藤は自販機の所に行き修造にカップのコーヒーを入れて控室に戻った。

「修造さん、お疲れ様でした。これどうぞ」

「あ、どうも」

これを飲みながらうろうろする者はあまりいない、座った修造の横に自分も座る。

「私は2人子供がいましてね、休みの日なんて家族サービスで大変です、でも子供達の笑顔を見ると不思議と疲れが吹っ飛びます」

「後藤さんのお子さんはまだ小さいんですか?」

「はい5歳と3歳です。良いですね子供は」

共感とシンパシー。後藤が客に対して営業で心がけている事だ。

「俺も子供がいるんです。上の女の子はとても好奇心が強い子で、下はもうすぐ4か月になります。可愛いですよね」

「ね!」

2人は顔を見合わせて笑った。

そのまま後藤はレコーダーのスイッチを押して修造にパン作りについて色々話しかけていった。

 

ーーーー

 

アパートの部屋に帰った修造は黙って入って来た。

「お帰り修造」律子が静かに小声で言った。

「ただいま」と帰って来たよのハグをした。

「子供達は?」

「寝てるわ」

「今日ごめんね遅くなって」

「なにかあったの?」

「今日撮影があって。それにインタビューめいた事もあったよ」

 

ソファに座ってふ~と息を吐く。

頭を背もたれに乗せて「スター選手の真似事は俺には向いてない。ああいうのは江川に任せておけばいいんだ」と泣き言を言った。

律子が横に座って手を握る「もうすぐフランスに行くからその準備が忙しいのね」

「何かのカタログとか新聞にに載るんだってさ」

「早く見たいわ」

「出来上がったら貰って帰ってくるよ」律子は疲れた修造の顔を覗き込んだ。

「大会が終わるまではパンの事だけ考えて。私達は大丈夫。何も心配いらないわ。そのカタログと新聞を部屋に飾っておくね。ずっと応援してるわ」

気丈夫な愛妻らしいきっぱりとした言い方に修造は愛おしさが倍増した。

 

 

「律子ありがとう」

「大好きよ修造。ずっと」

「俺、律子に出会えて良かったよ。何に感謝していいか分からないぐらい」

 

ーーーー

 

後藤は社に戻ってすでに出来ていた原稿の枠に記事と写真を載せて印刷するように指示した。

そうしてできた記事の載ったカタログと新聞は広く業界に送付された。

私達は日本チームを応援しています。とでかでかと載せた。

基嶋のホームページは新しく作り変えられた。

基嶋は本気を見せた。

私達は日本チームを応援しています。

内緒だが世界大会で優勝した時の為のものもすでに出来上がっている。

カタログなどを持ってきた後藤と五十嵐と他数名がフランスに応援に来てくれるらしい。現地で知り合いが多いのは心強い事だ。

「よろしくお願いします」修造も何度も営業の人達と話すうちにそんな挨拶が身についてきた。

 

ーーーー

 

「親方、みんな、俺たち行ってきます」

修造と江川は選考会の時の様にパンロンドの人達に挨拶した。

「修造、フランスに一緒に行けないけど、俺はずっと応援してるからな」

どんな時でも仕事の手を休めない親方らしい応援の仕方た。

「修造さん、江川さん頑張って下さいね」と藤岡が

「イェ〜ファイト〜。トロフィー見せてくださいね〜」と杉本がはじけた。

「忙しい時に休んでごめんね。僕頑張る」

「行ってきます」皆それぞれグーをトントンと突き合わせて2人を見送った。

全ての荷物を送って無事に会場に就くように祈る。·

 

 

「行こうか江川」

「はい」

 

 

成田を21時40分に出てシャルル・ド・ゴール空港に9時40分着。

19時間でフランスだ.

 

 

とうとう旅立つ時が来た。

 

おわり

 

種をリフレッシュ  ライ麦のサワー種は固い生地で低温で長期間保存すると酢酸が多く生成される。今回はそれを防ぐ為に種継ぎ(リフレッシュ)する。旅先だが、あまり酸味を強くせず、乳酸を増やす操作をしようと修造は考えていた。

相欠き(あいがき)は木材の継手の一種で、下の上の図のように板物や角材の継ぎ方をいう。角材などを互いに半分ずつ欠きとって、切り取った部分を繋ぐ方法。おおむね材の厚さ分の長さを、互いに重ねることが多い。

ほぞ組みとは、脚物家具(椅子やソファなど脚付きの家具)に使われる木材の接合方法のひとつ。

※モルダー  製パン用の機械のひとつ。丸めた生地をモルダーに入れると伸ばして生地のガスを抜き、機械の中でコロコロ転がってロール状(コッペパンみたいな細長い形)になって出てくる。プラス板の間隔の調節で食パンなどの大物から小さなロールパンまで対応できる。

 


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